タルコフスキイの世界(その4) 「惑星ソラリス」


「惑星ソラリス」は、私が最初に見たタルコフスキイの映画である。

1970年代の末だったか、80年代の初めだったか、夏を過ごしていた札幌の場末の小さな映画館で見た(制作は72年。日本公開は77年)。
タルコフスキイが誰なのかまったく知らず、SF映画だからというだけの理由で見た。途中から入ったので、最初から4分の1くらいは見ていない。タルコフスキイの映画は日本ではめったに上映されないので、全編を何度も見られるようになったのは、DVDのお蔭である。
原作は、 ポーランドのSF作家、スタニスワフ・レムの『ソラリス』(邦題は、『ソラリスの陽のもとに』。早川書房)。

ソラリスは宇宙の遥かかなたの謎の惑星。生物の存在は確認されていないが、惑星の全表面を覆う海は、知性を持った有機体と推測されている。世界中の科学者たちが海と交信しようと試みるが、数世紀にわたる努力にもかかわらず、成功しない。そして、ソラリスの軌道上にある宇宙ステーション「プロメテウス」との通信が途切れてしまった。その調査のために、心理学者のクリス・ケルヴィンが派遣される。

クリスの出発前日、宇宙飛行士バートンがかつて行なった証言のビデオテープをクリスに見せる(「ビデオテープというところが、何とも懐かしい)。彼は、ソラリスの海の上を捜索のために飛んだとき、超自然現象を目撃したのである。だが、彼が撮影したフィルムには雲しか映っていなかったので、異常現象は彼の幻覚にすぎないと片づけられてしまったのだ。
ところが、クリスは興味を示さず、飛行士は憤慨して帰ってしまう。帰りの車の中からクリスの父親に電話をかけ、「ビデオテープの証言では言わなかったことがある」と言う。
この車が走っているのは、何と、日本の首都高速道路だ(タルコフスキイは大阪万博を撮影しようと来日したのだが、予定があわず、帰りがけに首都高速を撮影したらしい)。道路標識には漢字が見える。首都高は完成後あまり日が経っていないので、新しい。それに、車の量が少ない。赤坂見附付近の風景が映るのだが、これが、遥かな宇宙を探検している未来世界の都市か?
日本人の観客には興ざめのシーンだ。もともとこの場面は必要ないので、「惑星ソラリス」で唯一の失敗個所である。

「プロメテウス」に到着したクリスは、異常な静寂と荒廃に迎えられる。友人だった生理学者ギバリャンは、謎の自殺を遂げていた。クリスは彼が残したビデオを見るが、海にX線を照射する実験を行ったこと以外、手がかりはなかった。
残った2人の科学者である生物学者のサルトリウスと電子工学者のスナウトは、何が起きたのかを語ろうとしない。そして、何かを必死に隠そうとしている。
宇宙ステーション内には、誰かがいるのだ。スナウトの部屋には幼児がハンモックに寝ているし、サルトリウスの部屋には奇怪な人物がいる。そして、青いブラウスを羽織った少女が歩いている。海は、人間の潜在意識の奥を探り出して、それを物質化していたのである。いまの言葉で言えば、超高性能3Dプリンタというところか。二人の科学者は、それらに怯えている。心の底に沈んでいて、人には見せたくないこんなものがでてきて歩きだしたら、誰でも自殺したくなってしまう。

眠りについたクリスが目覚めると、10年前に自殺した妻ハリー(ナターリヤ・ボンダルチュク)が椅子に座っている。クリスは、ハリーの服が着脱不能なのに気づく。彼女も、ソラリスの海が送ってきた幻だった。
クリスとハリーの間に10年前に何があったのかは、詳しくは分からないのだが、クリスの母親とハリーの間がうまくいかなかったことが関係しているらしい。クリスは妻の自殺に自責の念を抱いている。

クリスが部屋の外に出ると、ハリーはドアを破って出ようとする(「ドアは開けるものだ」ということを知らないらしい)。ひどい傷を受けるが、みるみる元通りになってしまう。やはり、これは化け物だ。

クリスは、嫌がるハリーを小型ロケットに押し込め、宇宙空間に打ち上げてしまった。何たる男だろう。
ところが、ハリーは戻ってきた。
サルトリウスの説では、これらの物体(彼の表現では「客」)は、ニュートリノでできている。ソラリスの磁場が、本来は不安定なニュートリノを安定化しているのだ。
そうしたものであることを知りつつ、クリスの考えは次第に変化していく。クリスは、「ハリーの形をしている物体」を愛するようになるのである。

ある日、図書室でスナウトの誕生日祝いが開かれた。ハリーは、自分たちを「客」と呼んで人間として認めないサルトリウスとスナウトを非難し、「客」は人間の良心の現われではないかと言う。

図書室の壁には、ブリューゲルの絵が何枚も飾られている。そのうちの1枚、「冬の狩人」が大写しにされる。主人公が母親を回想する場面も、雪に覆われた小高い場所だ。

宇宙ステーションは定期的に無重量状態になるらしい。蝋燭の燭台が浮かび上がり、シャンデリアが微妙な音を発する。クリスとハリーは抱き合ったまま空中を浮遊する。サクリファイスや鏡の空中浮遊のあまりはっきりしないモノクロ画面とは違って、この場面はカラーではっきりと映し出されている。

そのあと、ハリーは液体酸素を飲んで自殺する。しかし、蘇生する。
科学者たちは、クリスの脳波を変調して、海に向けて放射することを提案する。
夢の中で、クリスは地球の家と母を見る。クリスが目覚めると、ハリーは置手紙を残していなくなっていた。
ソラリスの海にも異変が起き、小さな陸地ができ始める。

そして、クリスは、任務を終え、地球に帰還する。
冒頭にでてきた田舎にあるクリスの父親の家だ。居間にいる父親の姿が窓から見える。雨が降っているのだが、部屋の中に(だけ)降っている。父親の背中に当たった雨は、あたかも高熱の物体に触れたように蒸発する。この映像で、観客は「何かおかしい」と感じ始める。
父親は外にいるクリスの姿を認める。そして、クリスを迎えるため、ドアを開けて外に出る。クリスは、父親の前にひざまずき、すがりつく。
カメラは、2人の姿を上空から映しながら、高度を上げていく。
雲が一瞬視界を遮る。それが晴れると、2人がいる家は、ソラリスの海に出現した小さな孤島のなかにあることが分かる。
クリスは、ソラリスに囚われてしまったのである!
この場面は衝撃的だが、「救済」は感じられない。観客は放り出されてしまう。

映画が作られた72年は、フルシチョフの時代。月着陸競争でアメリカに負けたとは言え、ソ連の国力は依然として強いように見えた。80年代のソ連の混乱は、もう少しあとのことである。それなのに、なぜこのように救いがないのか?
映画の最後の場面は、原作と違う。原作では、クリスはヘリコプターでソラリスの陸地に下りたつ。彼は、未来に対して、あまり確実ではないものの、もしかしたら何かが起こるかもしれないという可能性を感じている。それは、「彼女(ハリー)が私に残していった最後の期待であった」。そして、ソラリスの海との意思疎通(らしきもの)が開始される。
どちらのエンディングがいいかについて、タルコフスキイとレムが大喧嘩したという話は有名だ。確かに、レム・バージョンは、映像としてはあまり印象的でない。しかし、タルコフスキイはもう少し観客サービスをしてくれてもよかったのではないか(未来への希望の萌芽を見せてくれてもよかったのではないか)という気がする。

ハリーを演じるボンダルチュクは、神秘的な雰囲気を漂わせていて、はまり役。液体酸素で凍結した状態から痙攣をおこしながら蘇生する場面の演技はすごい(どうやってあの場面を撮影できたのか?)。
それに対して、クリス役のドナタス・バニオニスは、鈍重で、繊細さや知的な雰囲気は感じられない。10年前の妻の自殺にくよくよしている男には、とても見えない。ふてぶてしい感じもするので、最後に父親にすがりつく場面は違和感がある。ミスキャストではないだろうか?
電子工学者(原作ではサイバネティック学者)スナウト役のユーリー・ヤルヴェトも、名演。この映画は、ボンダルチュクとヤルヴェトで救われている。
(ついでに言うと、ハリーは英語圏ではヘンリーの愛称で、典型的な男子名だ。この名は、違和感をもたらす)。
宇宙ステーションの壁を埋め尽くすアナログ電子機器の何たる古めかしさ!コンピュータは磁気テープを用いている。映画が作られた70年代以降、情報技術は様変わりしてしまったことを痛感する。40年も経っているのだから当たり前だ、と言われればそのとおりだが・・・。
なお、2002年にアメリカの映画監督スティーブン・ソダーバーグが「ソラリス」を作った。残念ながら、一度見ただけで2度と見る気がしない駄作。「『客』はその人の良心の表れなのだ」というタルコフスキイの視点は、まったくない。登場人物にも魅力が感じられない。最後は宇宙ステーションがソラリスに落下し、そこである種のハッピーエンディングが実現する(過去の過ちを修正できた)ということになるのだが、あまりにお粗末。

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