戦後史

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1940年前後に生まれた私たちの世代が社会に出たのは、日本がちょうど高度成長を開始した直後のことでした。私たちの誰もが、現場の第一線で、成長過程の一端を担ってきました。そして、日本製品が世界市場を制する有様を目の当たりにしたのです。しかし、退職期が近づくにつれ、日本が衰退し漂流する様を見なければならなくなりました。つまり、私たちは、日本経済が戦後辿ったサイクルの始まりと終わりを見たのです。その意味で私たちの経験は貴重なものであり、何らかの形で残して置くことが必要だと考えています。
このセクションは、私と私の友人たちが実際に経験した戦後日本経済史です。

和田 浩  銀行を巡る変遷とその中にいて思うところ
この30年で銀行の統合は進み、入社当時二十数行あった大手銀行は、現在いくつかの銀行グループに統廃合されている。(>>全文を読む

髙橋孝雄     21世紀、グローバル時代にどう生きるか
小生の戦後史(社会人になってからの)に想いを馳せた時、先ず、松下幸之助、アメリカ、国際大学という、3つのキーワードに思い当ります、それは、以下簡単にお話しする小生の経歴からお察し頂けるかと思います。(>>全文を読む)

浜中順一 高度成長期における日本製造業の研究開発マインド
私は1966年に石川島播磨重工業(現IHI)に入社し技術研究所に配属されました。当時日本はいわゆる高度成長期にあり、企業、特に製造業のマインドは非常に前向きであり研究開発にも積極的に投資がなされておりました。(>>全文を読む)

森 浩一  私の企業文化論

人 は、あるいは日本人はというべきかも知れないが、外国人が日本人と異なる文化、習俗、行動様式を持っていることにごく自然に慣れている。勿論幕末にペリー が黒船で来日した時代はそうではなかったであろうが、肌の色も眼の色もが違い、異なる言葉を話す人々が日本人と同じわけがないと思っている。そのような人 たちが日本語を上手に話し、日本の情緒を理解する時には一様に驚く。
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辛嶋 修郎(平成23年6月3日記) 幽霊戦闘機
七十歳を過ぎると、父 辛嶋 實のことを少し調べたくなった。それは、自分の人生経験に照らして、父の生涯を考える余裕が出てきた兆しからか。父は会社人間だったが、私が子供の頃は会社で何をしていたか私に話すことはなかった。元来、父が寡黙であったせいか、それとも教育者の家に育ったことによるのか私に話すことは論語のことや元旦の書き初めで自分が書いた字句の説明であった。尤も私が歳を取りすぎて父の説教など嫌なことは忘れてしまったのかもしれないが。(>>全文を読む)

野口悠紀雄 高度成長期にできたことを今できない日本人
常識はずれだった製鉄所建設
1950年に川崎製鉄(現JFEスチール)が千葉に製鉄所を建設すると発表したとき、多くの人が、その計画を無謀で常識はずれのものと考えた。

第1に、当時の日本の製造業は、繊維や雑貨などの軽工業が中心であり、大規模な新鋭製鉄所を作っても稼働率は確保できないと考えられていた。この計画に反 対した日本銀行の一萬田尚登総裁が「製鉄所にペンペン草を生やしてみせる」と言ったのは、ごく普通の反応だったのである。(>>全文を読む)

野口悠紀雄 一個人が始めた奨学金
半田フェローシップ
私の高校の同級生、半田宏治君は、若いときにカナダに渡って日本車のディーラーを始め、成功して60歳で引退した。そして、事業を売却した資金で奨学金をつくった。
奨学金は、「半田フェローシップ」と名づけられた。個人が拠出した基金だから、それほど巨額なものではない。総額一八万ドルで、一人当たり二年間にわたって三万ドルを給付する。返済は不要。四年間にわたり、全部で六人に支給した。(>>全文を読む)