キューブリック

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天才キューブリックの最高傑作:ドクター・ストレンジラブ

深刻なテーマほど喜劇化に向く

スタンレー・キューブリック監督の映画『ストレンジラブ博士』(一九六三年)は、私が最も好きな映画の一つだ(日本では、『博士の異常な愛情』というタイトルになっている。もちろん、これは誤訳である)。キューブリックの作品では、『2001年宇宙の旅』(一九六八年)がよく知られているが、『ストレンジラブ博士』のほうがずっと出来ばえがよい。何度繰り返し見ても、飽きない。

これは、偶発核戦争をテーマとしたブラック・コメディである。狂った空軍基地司令官の命令で、パトロール中のB52爆撃機編隊がソ連核攻撃に発進してしまう。大統領の必死の努力で呼び戻しに成功するが、一機だけには帰還命令が届かず、核爆弾が投下されてしまう。それをきっかけにソ連の「ドウムズデイ・マシン」(最終兵器)が起動して世界は破滅、というストーリーだ。
原作は、ピーター・ジョージの『レッドアラート』。この時代には、似たテーマの小説が多数現われた。ユージン・バーディックの『フェイルセイフ』(一九六六年)は、日本語訳もあり、よく知られている(ヘンリー・フォンダの主演で映画化もされた)。こちらは、アメリカ大統領の決断で生け贄とされたニューヨークにアメリカ空軍が核爆弾を投下し、全面核戦争が回避されるという結末になっている。当初、キューブリックは、深刻な映画を作るつもりだった。しかし、構想を練ってゆくうちに考えが変わった。政治理念が異なるというだけの理由で超大国が対立し、人類が滅亡しかねないのは、それ自体が喜劇であることに気づいたからだ。
深刻なテーマほど、喜劇化に適している。「喜劇的なことを悲劇的に演じ、悲劇的なことを喜劇的に演じるのが道化だ」とは、フランスの評論家アンドレ・シュアレスの言葉であるが、この映画を見ていると、それが真実であることがよくわかる。この映画では、登場人物が笑っている場面はまったくない。人類滅亡の瀬戸際だから、笑ってなどいられないのだ。しかし、この映画は、私がこれまで見たコメディの最高傑作である。

例えば、爆撃機を呼び戻すキーワードを発見した空軍士官が、大統領に連絡をとろうとする場面がある。しかし、彼がいる基地は封鎖されているので、公用電話が通じない。そこで、公衆電話から通話しようとするが、コインの持ち合わせがない。ホワイトハウスにコレクトコールを申し込むと、拒否されてしまう。最後に、コカ -コーラの自動販売機を銃で撃ち壊してコインを取り出すことを思いつく。
しかし、銃をもった警備兵はその命令を拒否する。壊せばコカ -コーラ社に損害賠償を要求されるからというのだ。人類が存亡の危機にあるにもかかわらず、である。『七人の侍』の中で、村の長老が「首が切られるかもしれないときに髭の心配をしてどうする」という場面がある。しかし、そういう心配しかできないのが官僚機構というものであり、また普通の人間なのである。

キューブリックは、その後いくつかの作品を残した。「バリー・リンドン」(1975年)、「フルメタル・ジャケット」(1987年)、「アイズ ワイド シャット」(1999年)が有名だ。
しかし、「バリー・リンドン」は凝りすぎ。

ヴェトナム戦争を描いた「フルメタル・ジャケット」は、名作である。姿の見えぬ狙撃兵との息づまる戦い。しかし、全体が2つのストーリーに分割されてしまって印象がバラバラになる。
「アイズ ワイド シャット」は駄作としか思ない。キューブリックがこの映画で何を主張しようと思ったのか、私にはさっぱり分からなかった。天才も歳を取ると駄作を作るようになるのだろうか?

悲劇的喜劇を演じる俳優達
悲劇的喜劇を演じるには、役者に高度の演技力が要求される。この映画では、ピーター・セラーズが、ストレンジラブ博士、米国大統領、英空軍士官マンドレイクと、一人三役を演じている。ストレンジラブ博士はドイツ訛の英語、大統領は典型的なインテリ・ヤンキーの英語、そしてマンドレイクはキングス・イングリッシュを話す。「英語」といっても、これらはまったく異なる言語のようなものである。よく話し分けられるものだ。
言葉だけでなく、これら三人はまったく異なる強烈な個性をもった人物だ。セラーズは、それを見事に演じ分けている。説明されない限り、同じ俳優とは気づかないだろう。当初の予定では、B52爆撃機の機長コング少佐(テキサス訛の英語を話す熱狂的愛国者)も、セラーズが受け持つ予定だったという。「役柄になりきる」と簡単にいうが、一つの映画の中でこれほど多数の人格を演じ分けられる俳優の頭の中は、いったいどうなっているのだろう。
しかも、彼は、決められたとおりの演技をしているだけではない。米大統領がホットラインでソ連の首相を呼び出し、泥酔している首相をなだめすかしつつ交渉をする場面がある。これは、落語を聞いているような面白さなのだが、当初の筋書きにはなかったもので、セラーズのアイデアなのだそうだ。

ついでにいうと、この映画では、米国でもソ連でも、政治の最高指導者(大統領と首相)が、軍の官僚機構をまったくコントロールできていないことになっている。これは、きわめてリアリスチックだ。
一般に、フィクションやファンタジーにおいて官僚集団が登場すると、描かれた世界のリアリティーが高まるものだ。

野蛮な軍人そのものの戦略空軍幕僚長タージドソン将軍を演じるジョージ・C・スコットも、実に魅力的だ。私は彼の出演作品をいくつか見ているが、この映画のスコットが一番生き生きしている。
タージドソン将軍のようながさつな印象を与える人物は、一見して官僚的人間像とは正反対にいるように見える。しかし、彼のせりふを注意深く聞くと、きわめて官僚的だ(特に、戦争司令室での大統領とのやりとり)。
現実の官僚機構において出世するのも、多くの場合、タージドソン将軍のように、外見が「太っ腹」で、しかも規則や故事来歴の詳細に通じた人達なのである。

この映画には、女性が一人しか登場しない。タージドソン将軍の秘書ミス・スコットで、まったくの端役なのだが、どういうわけか非常に印象に残る。これを演じているのは、トレイシー・リードで、彼女はイギリスの映画監督キャロル・リードの娘である(キャロル・リードは、『第三の男』『オリバー!』などで知られる。後者は、オスカーを『2001年宇宙の旅』と争い、勝った)。
トレイシー・リードは、『007・カジノロワイヤル』にも出ている(ついでながら、この映画も大傑作のコメディだ)。

細部へのこだわり
キューブリックの作品の大きな魅力は、細部へのこだわりにある。『ストレンジラブ博士』においても、キューブリックのこだわりは、いかんなく発揮されている。
例えば、B52爆撃機だ。この当時、機体内部は戦略機密で、公表されていなかった。キューブリックのチームは、イギリスの航空専門誌にあった一枚の写真から内部の詳細を想像し、映像化したのだそうだ。結果的には、実物に非常に近いものになった。
計器類や操縦装置、乗員の話す専門用語など、実にもっともらしい。機長のコング少佐が操縦席から立ちあがったとき、飛行機の揺れで足がふらつく場面がある。ほんの一瞬なのだが、これだけで本当に飛行中の機内の映像を見ているような気分になる。
B52の飛行場面は非常によくできていて、本物より本物らしい。ミサイルに被弾したB52がきりもみから脱出し、奇妙な姿勢で北極の氷原上空を飛んでゆく場面がある。これなど、実に魅力的な映像だ。爆撃機が攻撃目標に刻々と近づいてゆく場面も、素晴らしい。私のある友人は、「この映画の主役はB52だ。見ているうちにこの飛行機がいとおしくなってくる」と言った。これは的確な感想である。

壁一面のディスプレイにソ連の地図と爆撃機編隊の飛行経路が示される国防総省地下戦争指令室も、よくできている。レーガン大統領は、就任後に本物の戦争司令室を見て、「ストレンジラブに出てきた場所と違う」と言ったそうである。
説明されないと気づかないような細工もある。例えば、パトロール中のB52の機内で、退屈を紛らわすために、乗員の一人が『プレイボーイ』誌を読んでいるシーンがある。このセンターフォルドの写真は、トレイシー・リードなのである。

倒錯的核戦略と姉妹であるインターネット
ドウムズデイ・マシンにしてもフェイルセイフ飛行にしても、核戦略家が考え出したものは、「倒錯的」としか思えないものが多い。
ただし、付け加えておくと、私は、これらを無条件に「倒錯的」と考えているわけではない。
それどころか、「人々が合理的に行動するという前提の下では、これらが合理的思考の極限形である」という核戦略家の結論には、同意せざるをえない。
例えば、ドウムズデイ・マシンだが、これはソ連に核攻撃が加えられた場合、世界中を九九年間にわたって放射能で汚染させてしまうという装置である。起動は自動的であり、たとえソ連首相といえども、それを恣意的にストップさせることはできない。この装置について、ストレンジラブ博士は、「その存在が公表されている限りにおいて、核戦争を抑止する手段としてきわめて合理的なものだ。自動的であるから、命令が恣意的になされる米国のフェイルセイフ飛行よりも、確実である。そのうえ、コストも安い」とコメントしている。
私も、この説明は正しいと考えざるをえない。そのような装置が存在することを米国側で知っているとすれば、気が狂った司令官も含めて、誰もが核攻撃突入の命令は出さなかったはずだからである。そうならなかったのは、公表されていなかったというソ連側のミスによる(ソ連大使は、「数日後に公表されることになっていた」と説明する)。ここに悲劇の原因があったのだ。

ところで(話が若干飛躍するが)、インターネットは、冷戦の落とし子である。その前身である「ARPAネット」は、米国の国防高等研究計画局(DARPA)で一九六九年に開発されたものだ。核攻撃で中心地が壊滅しても通信が途絶えないように、データを小さな単位に分けてさまざまなルートで送るという技術が、その中核である。だから、インターネットと核戦略の産みの親は、同じなのだ。
インターネットがドウムズデイ・マシンやフェイルセイフ飛行と“姉妹”であるというのは、誠に興味深い事実ではあるまいか。
核戦争の恐怖に脅える時代がなかったら、われわれはこのような「夢の通信手段」をもつこともなかったのだ。そう考えると、妙な気分がする。


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