終わりが肝心

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映画は終わりが肝心

「市民ケーン」の「薔薇の蕾
映画にも、最後の画面が強烈な印象を与えるものがある。わずか数秒間の映像が、それまでのストーリーに、まったく新しい意味を与えるのである。
その典型は、オーソン・ウエルズの「市民ケーン」(一九四一年)だろう。
これは、新聞王ウイリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにした映画で、ウエルズが二五歳のときの作品だ。

ケーンは、臨終の際に、「薔薇のつぼみ(Rosebud)」という謎の言葉を残した。「Rosebud とは、いったいだれか?」 これを解明するため、新聞記者が、生前ケーンと親しかった人々にインタビューして歩く。映画は、彼らの証言をもとに、ケーンの生涯を明らかにしてゆく。
ケーンの生家は、山のなかの貧しい宿屋であった。客が宿賃代わりに株券を置いていったボロ鉱山で金が発見され、ケーンの家族は一挙に大金持ちになる。上流階級にふさわしい教育を受けるため、幼いケーンは両親のもとを離れて都会に出てゆく。
大学時代の友人と新聞社を始め、積極的な編集で米国一の大衆紙を築く。大統領の姪と結婚し、知事選に出馬。当選直前までゆくが、スキャンダルが暴露されて敗北、離婚。等々、波瀾万丈の一生が再現される。しかし、「薔薇のつぼみ」の謎は解けない。
最後の場面は、ケーンがつくった城の大ホールだ(この城は、カリフォルニア州サンシメオンに、「ハースト・キャッスル」として実在している)。収集癖があったケーンは、膨大な数の収集物を残した。それらがホールに持ち出され、整理されてゆく。美術館一〇館分という美術品と骨董品の山、思い出の品々など。しかし、どうでもよいようなガラクタも多い。無価値と判断されたものは、作業員が暖炉に投げ込んで焼却している。
その中に、子供用の橇がある。ケーンが母親から無理矢理引き離された雪の日、遊んでいた橇だ。橇が炎につつまれ、描かれた商標が照らし出される。それは、薔薇のつぼみの絵だ! このシーンを初めて見たとき、あまりの衝撃で、映画が終わっても椅子から動くことができなかった。

同じような衝撃は、ジョージ・ルーカス監督の出世作「アメリカン・グラフィティ」でも経験した。

一九六〇年代のカリフォルニアのある田舎町。高校卒業式の一日の出来事だ。ダンスパーティ、ガールフレンドとの行き違い、自動車レース等々、たわいない挿話が続く。バックに流れる六〇年代の音楽にセンチで幸せな気分になって、映画が終わった……。
と思ったら、まだ続く。登場人物の「その後」を記した字幕が、たんたんと流れる。「酔っ払い運転の自動車事故に巻き込まれて死亡」、「ベトナム戦争で行方不明」等々。観客は、一挙に現実世界に引き戻され、六〇年代がもはや取り戻せない世界であることを思い知らされるのである。

映画「ソラリス」の最終場面
約一〇年前に亡くなった旧ソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキイの作品は、どれも最後の場面が強烈な印象を残す。
「ソラリス」(邦題「惑星ソラリス」)は、スタニスワフ・レムの同名のSFを映画化したものである。
この惑星は、沸騰するゼラチン状の海で覆われている。それは知性をもった生命体のようであり、地球から送られた研究用宇宙ステーションに居住する科学者の潜在意識を物質化し、実体化する。主人公ケルビンの前には、一〇年前に自殺した妻が現れる。さまざまな奇怪な事件ののち、最終的に、科学者は物質化された組成の破壊に成功する。
映画の最後で、ケルビンは、地球に帰還したように見える。映画の冒頭に現れた故郷の湖畔を歩いているからだ。美しい自然のなかの一軒家が映し出される。ケルビンは、玄関で父親と再会し、長い宇宙旅行を詫びるかのようにひざまずく。
カメラは上に引いてゆき、上空から屋敷をとらえる。カメラはさらに上空に昇り、家も湖もまわりの森も、しだいに小さくなる。霧が風景を一瞬覆い隠す。カメラがさらに上昇してゆくと、これらすべてが、実はソラリスの海に浮かぶ小さな島の上にあるのがわかる。ケルビンは、ソラリスにとらわれてしまったのだ!

「ノスタルジア」も、似た結末になっている。
祖国へのノスタルジアに苦しみつつイタリアを旅行するロシア人の主人公が、最後のシーンで、故郷の家の前に横たわっている。カメラが引いてゆくと、家の後ろに巨大な石柱が現れる。ロシアの大地にあったはずの家は、実は、イタリアの大聖堂の廃墟に取り囲まれていたのだ。

「ストーカー」(「密猟者」の意)では、「ゾーン」と呼ばれる立ち入り禁止地区が舞台だ。
ここは、隕石の落下か宇宙人の来訪によってすべてが破壊された廃墟である(七年後のチェルノブイリを予言したかのようだ)。ストーカーの案内で、科学者と作家が探検に訪れる。観客は、異常な出来事が起こるに違いないと待ち構えているのだが、何も起こらない。そして、三人は帰還してしまう。「ソラリス」、「鏡」、「サクリファイス」で見た空中浮揚のような超自然現象を期待していた観客は、肩透かしをくった気持ちになる。
そして、最後のシーン。少女(ストーカーの娘。足が不自由)が、テーブルの向こう側に座って、詩を朗読している。テーブル上のグラスが彼女のまなざしにとらえられて震え、微かに動き始める。念力移動が始まったのだ! 彼女は、新しい力をもった新人類であり、ミュータントだったのである。ゾーンは、疑いなく奇跡の地であったのだ。

*  *  *  *  *  *

現実世界の組織は、「終わり」がないことを前提にして組み立てられた going concern である。だから、長年続いた組織が突然行き詰まれば、映画や小説のようにゆかないのは、当然だ。どろどろした葛藤は避けられまい。
しかし、「有終の美」という言葉もある。消滅する組織は、印象的な最後を見せてほしいものだ。Schwanengesang(白鳥が死に瀕して歌う最後の歌)とまではゆかないにしても。

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