魔笛

Pocket

 

 

 

ミーハー的魔笛論

映像技術が変えたオペラ鑑賞法
技術が進歩すれば、音楽鑑賞の方法も変わる。映像技術の進歩によるオペラ鑑賞法の変化は、その代表例だ。これを最初に感じたのは、1990年代にLDでオペラを見られるようになったときだ。
ヨーロッパやアメリカの都市と比べると、日本の都市でのオペラ上演回数は圧倒的に少ない。ワグナーの『ニーベルンクの指輪』のような長大な楽劇を日本で見るのは、不可能に近い。上演されたとしても、外国歌劇団の日本公演は、入場料が馬鹿高い。しかも、チケットを早くから買わねばならないので、予定が拘束される。いざ当日になったとき、仕事の関係で行けるかどうか心配だ。ロンドンやニューヨークに行ったときも、時間の制約があるので、オペラは敬遠してミュージカルを見てしまう。

こうした背景があるため、これまでの日本では、小林秀雄に代表される「オペラ純粋音楽派」が主流だった。
小林秀雄は、『モオツァルト』(『小林秀雄全集』第一八巻所収、新潮社、一九七八年)の中で、次のように述べている。
「わが国では、モオツァルトの歌劇の上演に接する機会がないが、僕は別段不服にも思はない。上演されても眼をつぶつて聞くだらうから。僕は、それで間違ひないと思つてゐる。彼の歌劇には、歌劇作者よりも寧ろシンフォニイ作者が立つてゐる、と言つても強ち過言ではないと思ふ。(中略)シンフォニイ作者モオツァルトは、オペラ作者モオツァルトから何物も教へられる処はなかつた様に思はれる」
これは、「重要なのはモーツァルトの音楽であって、演技や筋書きではない」という考えである。しかし、DVDなどで簡単にオペラを見られるようになって、事態は大きく変わった。小林秀雄がDVDを見ることができたら、どのように意見を変えただろうか?

もちろん、「劇場にゆかずに手軽にすますことの後ろめたさ」はある。自宅でDVDを見ると、集中力と緊張感がないまま見てしまうことが多い。退屈なところは飛ばして、ハイライトだけを見てしまう。これが正しい鑑賞法でないことは明らかだ。しかし、観劇の困難さを考えれば、ストイックなことばかりは言っていられまい。
それに、DVDは、本物の舞台を見る準備にもなる。劇場に行くといっても、内容をよく知らずに見るのではもったいない。また、いきなり生の舞台を見るのは、リスクが大きい。高いチケットを買ったのに、大したことはなかったという危険は十分ある。事前に下調べができるようになれば、歌手のブランド名だけで馬鹿高い入場料を支払うほど日本の市場も甘くはなくなるだろう。

これならチケットはいらない
また、劇場ではわからなかったことが、DVDでわかるようになった面もある。まず、日本語の字幕が出るので、歌詞の意味がわかる。劇場でも字幕が出るが、DVDなら繰り返し見られる。これまで、意味を全く誤解していたのに気づく場合もある。

いま一つは、歌手の姿が詳細に見えることだ。DVDで大写しになると、歌手の目の動きまではっきりとわかる。劇場では、大まかな動きは見られるが、細かい表情などはわからない。もちろんオペラグラスを持っていけば表情は見えるが、オペラグラスは意外に不便だ。舞台全体の動きが分からなくなってしまう。
このため、女性歌手の容姿がオペラ鑑賞上の非常に大きな要素になったと思う(美人かどうかということでは、必ずしもない。魅力的かどうかということだ)。これは、昔、映画が登場したときの役者の困惑と似たもの、あるいはトーキーが登場した時に無声映画の俳優が感じた当惑(ミュージカル「雨に歌えば」のテーマだ)を、オペラ歌手に与えていることだろう。

これまでの固定観念が大きく変わることもある。例えば、チケットが入手できないことで有名なイギリスのグラインボーン音楽祭(以下、GFO)だ(ちなみに、Glyndebourneのdeはサイレントである)。昔、イギリスのある友人に頼んだところ、「乗用車一台と引き換えという条件でよければ、『タイムズ』に広告を出してあげよう」と言われて、断念したことがある(もちろん、からかわれたわけだ)。
ところが、「魔笛」のGFO版DVDを見て、偶像は壊れた。登場人物が視覚的にあまり魅力的でないからである。「これならチケットはいらない」と、私は葡萄を取り損ねたイソップ物語の狐のような気分になっている(あの葡萄は酸っぱいに違いない)。

上のようなことを言えば、「純粋音楽派」からは「堕落」という批判を受けるだろう。しかし、オペラはmもともとそういう要素をもっているのではなかろうか。以下では、専門の音楽評論家ではできないミーハー的評論を行なうこととする。
対象は、モーツァルトの「歌芝居」(Singspiel)「魔笛」である。なぜ「魔笛」か? それは、モーツァルトの研究家アインシュタインがいったように、「どんな個人も、どんな世代も、「魔笛」のうちにそれぞれ異なったなにものかを発見する」からだ。

何と魅力的なパミーナ
スウェーデンの映画監督イングマール・ベルイマンが、「魔笛」を映画化している(以下、IB。なお、映画といっても、劇場上演版に殆ど忠実である)。
ここに登場するパミーナ(フィンランド出身のイルマ・ウルリラ)は、実に魅力的だ。このパミーナを見ていると、「タミーノがパミーナの肖像画を見ただけで恋に陥ってしまう」という何とも不自然な筋書きが、少しも不自然とは思えなくなる。

第1幕第11場のパミーナとパパゲーノの二重唱(「愛を知る人は」)は、「魔笛」の中で(というよりは、あらゆる歌劇の中で)最も感動的な二重唱だ(ベートーベンの『魔笛の主題による変奏曲』の一つは、これを主題とするものだが、ベートーベンでさえ、元の二重唱にはるかに及ばない)。IBでは、これが童話的な雰囲気の中で歌われる。これぞモーツァルトの世界の完璧な映像化!

この映画では、第1幕と第2幕の合間の休憩時間に、出演者が楽屋でくつろぐシーンが挿入されている。パミーナは、ここでタミーノとチェスを打っている(そういえば、チェスの場面は、ベルイマンの映画によく出てくる。『第七の封印』でも、死神がチェスを打つ)。
劇中では、パミーナは受動的で従順な女性だ。とりわけタミーノに対しては絶対服従だ。第2幕で、「試練」のためにタミーノはパミーナを近寄らせない。これは誠に理不尽な態度と思われるのだが、パミーナは何の不服も言わない。ウルリラは、そうした従順さを忠実に演じている。
ところが、休憩時間のチェスでは、彼女はタミーノを打ち負かしてしまうのである。当惑するタミーノを覗き込んで、「どう? 実力の差がわかった?」というような顔つきをする。
これは、ベルイマンの意図的な演出に違いない。パミーナの別の側面を垣間見るようで(つまり、「女性とは捉えがたいものだ」というベルイマンのメッセージを聞くようで)、実に面白い。

フィナーレの画面も実に素晴らしい。「勇気ある者が勝利する」の合唱場面では、抱擁するパミーナとタミーノの周りを人々の踊りの輪が取り囲む。他の演出に比べてはるかに動的で楽しい。この場面を見ていると、「魔笛」は本当に楽しい芝居だと実感する。

IBのパミーナを見ると、他の演出の影が薄れる。唯一の例外は、メトロポリタン歌劇場版(NYM)であろう。ここでは、キャスリン・バトルがパミーナを演じている。目の動きに愛敬がありすぎるようにも思うが、さすが大歌手の貫禄で、魅力的なパミーナだ(NYMの演出は、GFOと同じくジョン・コックスの演出なので、舞台は殆ど変わらない。しかし、登場人物は、NYMのほうがはるかによい。オーケストラもいい。特に序曲が。GFOはベルナルド・ハイティンク指揮のロンドン・フィルハーモニー。私は一般的にはハイティンクのきびきびした演奏が好きで、とくにベートーベンのシンフォニーは素晴らしいと思っているのだが、この序曲は鈍重な感じがする)。

夜の女王と侍女のドイツ語
IBの登場人物は、そろいもそろって美男、美女である。他の演出と比べて特に印象的なのは、夜の女王の侍女がコケティッシュで魅力的なことだ。第1幕第1場で、踊りながら退場してゆく場面は、実に楽しい。

ところで、IBでは、スウェーデン語が使われている。これが唯一残念なところだ。「画龍点睛を欠く」とは、まさにこのことだ。「魔笛」では台詞のドイツ語が素晴らしいのだが、IBではそれを聴くことができない。
ドイツ語の台詞では、旧東ドイツ時代のライプツィッヒ歌劇場版(LO)が秀逸だ。特に、夜の女王の登場を告げる場面(Es ist die Ankunft unsere Ko¨nigin……)や、パパゲーノを詰問して口に石をつめる場面などでの侍女たちの台詞がよい。彼女たちのドイツ語を聞いていると、生理的な快感を覚える。

夜の女王も、演技と台詞はLOが飛びぬけてよい。特に第2幕で、寝ているパミーナの傍らに現れる場面の芝居がかった仕草(芝居なのだから、芝居がかっているのは当然なのだが、GFOは実に散文的だ)。
LOは、舞台装置もよい。NYMが現れるまでは、劇場版として多分最高だったのではなかろうか。残念なのは、旧社会主義国の技術水準があまり高くなかったことだ。音はあとから別に録音したらしい。画面の口の動きと合っていない場面が多くて、興ざめする(とりわけ、前記のパミーナとパパゲーノの二重唱。なお、この場面の背景が視覚的によくないことが、興ざめのもう一つの理由だ。歌そのものは非常によいので、純粋音楽派的観点からすると、何も問題はない)。

貴人と道化
パパゲーノは、道化である。私がGFOを評価しない大きな理由は、パパゲーノ役がインテリ的だからだ。「こうるさい大学準教授」という感じがする(理論経済学などが専門の・・・)。厄介な議論を吹っかけられそうで、あまり楽しくない。これも、画面を見ていればこその感想だ。
私は、ドロットニングホルム宮廷劇場版(DH)のパパゲーノが最もよいと思う。パパゲーナもよい。目のくるくるした動きがよい。パパゲーノとパパゲーナの二重唱(「パ、パ、パ、パ」:第2幕第28場)での二人の(かなり下品な)演技は、最高だ(魔笛は、もともと芝居小屋でやる「歌芝居」なので、あまりお上品ではないのだ)。
この場面は、LOも非常によくできている。パパゲーナが美人すぎるようにも思えるのだが、愛敬があるので救われる。

ところで、パパゲーノとパパゲーナは、タミーノやパミーナのような貴人とは別の世界に生きる人間である。しかし、不思議なことに、「魔笛」にはパパゲーノとパミーナの二重唱がいくつもある。
貴人と道化が共演する場面の演出は、非常に難しいのではあるまいか。二人は恋人同士ではないから、あまり馴れ馴れしいと違和感がある。しかし、よそよそしくても、おかしい。GFOでは、前記の二重唱で、二人の間がぎこちない。IBは、この観点から見ても、実に自然だ。

IBとDHでは、フィナーレにパパゲーノとパパゲーナが登場して、効果的な動きをする。DHでは、全体としては動きが少ないこの場面が、二人の動きで活気づけられている。IBでは、貴人達の祝典をすっぽかして二人が愛し合っている(正確にいうと、いちゃついている。「庶民の生活も、それなりに楽しい!」)。NYM、GFO、LOでは、二人はこの場面に登場しない(「厳粛な祝典に道化は不要」)。
この場面は、社会における道化の役割を象徴しているといえないだろうか。そして、この場面には台詞もアリアもないので、演出家が自由に自分の考えを表現できる。私は、道化は社会の不可欠な構成要素だと考えるので、いやむしろ、われわれ各々が自分自身の中にある道化を尊重すべきだと考えるので、IBとDHの演出を支持したい。

_

カテゴリー: 未分類 パーマリンク