タルコフスキイの世界(その3)「鏡」

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タルコフスキイの世界(その3)「鏡」
「鏡」は、旧ソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーの1975年の作品。
どれも難解で、「人を眠らせる天才」と言われるタルコフスキーの作品の中でも、とりわけ難解と言われる。
私も、何度見ても意味がさっぱり分からなかった。しかし、何回か見るうちに、分からなくてもよいことに気がついた。彼が描く幻想的な世界に浸りきればよいのだ。
ストーリーらしきものが、ないわけではない。主人公アレクセイは、生き甲斐のある生活を送っているようには見えない男だ。現実の出来事との関連で、少年時代の記憶が脈絡もなしに呼び起こされる。

アレクセイの父は、母と子供たちを置いて去って行った。それと同じことを自分も繰り返そうとしている。つまり、父と息子が鏡像関係にある。母マリアと妻ナタリアも鏡像関係にあり、一人の俳優(マルガリータ・テレホワ)が演じている。
この映画ではしばしば詩が朗読されるが、これは妻と子を置いて去って行ったタルコフスキイの父親の詩なのである。だから、詩に出てくる「君」というのは、マリアのことだ。
断片的に思い出される過去の記憶をどう解釈したらよいのか。観客は、何の手がかりも与えられずに放り出される。登場している人物が誰なのか、とても気になるが、映画では説明されない。だから、われわれには知りようがない。

映画の最初は、吃音を矯正される若い男の場面。「僕は話せるようになる」という男の言葉とともに、タルコフスキイの自伝でもある物語が始まる。「矯正訓練を経てやっと話せるようになった辛い物語を話す」という感じだ。

タイトルが終わると、のどかな田舎の景色が映し出される。アレクセイが少年時代に毎夏を過ごしたという農場だ。メランコリックな表情の女が木の柵に腰かけてたばこを吸っている。医師と自称する男が近づいてきて、道を聞く。女はうっとうしがるが、男は厚かましく一緒に腰かけようとする。柵が壊れて、2人は投げ出されてしまう。男は、「植物にも感情や意識がある。木は動かないが、人間は始終走り回る、それは我々が内なる自然を信じずに疑り深くなって、考える時間を失ったからだ」などと言いはじめる。
女性は、アレクセイの母親マリアの若い時だ。子どもだったアレクセイは、ハンモックで眠りながらこの様子を聞いていたのである。
この場面にどんな意味があるのか、この医師は、映画の中でどんな役割を果たすのか?と考え込んでしまうのだが、もともと意味などないし、役割もない。男は単に通りすがりだ。
人間は重要なことを覚えているとは限らず、どうでもよい場面をいつまでも覚えているものなのだ。この場面も、そうしたものの中の一つに過ぎない。そう割り切って、画面の美しさだけを追えばよい。
実際、この場面は非常に印象的だ。男が去っていく時、草原を風が吹き抜けていくのだが、草が一斉になびく。どうやってこんな情景を撮影できたのだろうかと、誠に不思議だ。

空中浮遊の場面はタルコフスキイの映画でしばしば登場する(「惑星ソラリス」、「サクリファイス」」)。「鏡」にも空中浮遊のシーンがあり、とても印象的だ。

私が一番惹きいれられるのは、母親が印刷所で校正係の仕事をしていたとき、校正ミスをしてしまったと思って印刷所に駆けつける場面だ(スターリン時代のソ連では、誤植は命にかかわる大問題だったのである)。このシークエンスはモノクロになっている。
誰もいない早朝の道を駆け抜けて、印刷所に入る。最初の場面では雨は降っていなかったが、つぎの場面では土砂降り(古い記憶を思い出すとき、こうしたちぐはぐがよく起る)。彼女はずぶぬれになる。
異様な雰囲気の彼女に、印刷所は騒然となる。しかし、ミスはなかった。ほっとして自分の机に戻ると、同僚の女性リーザから、「女王気取りで甘ったれだ」と非難される。それを聞いてみるみる表情を変えるテレホワの名演技。
私がなぜこのシークエンスに惹かれるかと言うと、印刷工場の雰囲気だ。何の装飾もない殺風景で安普請の建物。でも、これは、間違いなく私の記憶の中にも沈んでいる建物だ。その映像を見ていると、私自身が遠い過去の世界に引きずりこまれるような気分になる。決して楽しい気分ではないのだが、一度経験すると、またそこに戻りたくなる。
リーザとの会話の中で、ドストエフスキイの『悪霊』の登場人物マリヤ・チモフェーヴナ・レビャートキナの名が出てくる。しかし、ここで説明されるレビャートキナは、小説に出てくるレビャートキナとは違うような気がするのだが・・・。
このシークエンスの最後では、印刷所の長い廊下を、リーザが神曲の最初の言葉「我、人生の半ばにして迷い・・」を口ずさみながら、踊って遠ざかっていく。神曲は、踊って口ずさむものだろうか?

もう一つ私が好きなのは、子どもたちの軍事教練の場面。小学生と思しき子供たちは、退役軍人である教官を馬鹿にしている。「回れ右」の号令で、一回りして元の方向を向いたりする。そして、「ロシア語で<回れ>とは360度回ることであって・・・」などと、生意気な理屈を並べたてる。他の子供たちが「彼の親は封鎖で死んだから」と言っているのだが、封鎖とは、レニングラード封鎖だろう。

事件が起きるのはその時だ。一人の子供が、他の子が持っていた手榴弾のピンを抜いて射撃訓練場に放り出す。子どもたちは一斉に伏せる。その時、教官は飛び出して手榴弾を掴み、それを抱えこんで丸くなるのである。1秒、2秒・・・。何も起こらない。一人の子が「模擬弾ですよ」と気の抜けたような声で言うと。伏せていた子供たちは立ち上がる。
しかし、教官は手榴弾を抱えたままの姿勢で動けない。彼は、文字通り身を挺して子どもたちを守ったのである。画面には何の説明も現われないのだが、その後ろ姿を見ているだけで、ロシアの人々に寄せるタルコフスキイの熱いメッセージがずしんと伝わってくる。

アレクセイの息子イグナートが、プーシキンの書簡を朗読する場面がある。「ロシアがその広い大地で蒙古を呑み込み、キリスト教文明を救った。そのため、ロシアは西欧とまったく異なるキリスト教国になった」という考察である。この考えは、タルコフスキイのロシア観の原点になっている(エイゼンシュテインも同様の考えを持っていたようだ)。
「サクリファイス」と同じく、この映画でもバッハの「マタイ受難曲」とレオナルド・ダ・ヴィンチの絵が出てくる。

映画の最後の場面は、冒頭に出てきた農場。まだ若かったマリアと夫が草の上に寝転び、「どっちが欲しい?息子か娘か?」と、未来への希望を語り合っている。
そのとき、起き上がったマリアが視線を転じる。すると、年老いた自分自身が、まだ少年であるアレクセイと妹の手を引いて歩き去って行く姿が目に入る。マリアは、未来を見てしまったのだ!
しかも、時間が混線してしまっている。年老いたマリアと同時代に生きるのは成人したアレクセイだし、少年だったアレクセイと同時代にいるのは、若いマリアであるはずだからだ。つまり、マリアは未来を見て、混乱したのである。この時のテレホワの表情が実に素晴らしい。

「時間のねじれ」という相対性理論的状況は、ハリウッド映画にもある。例えば、「デジャブ」や「サウンド・オブ・サンダー」など。しかし、ハリウッド映画では、時間にねじれを起こすために、全米を停電にさせるほどの電力を使って特殊電磁波を発生させる。その高価な画像とタルコフスキイの安上りの時間のねじれと、どちらが衝撃的か?間違いなく後者である。

カメラはさらに周囲の情景を映していく。木の柵は折れてしまっている。すると、いま見ているのは、通りがかりの医師が現われた後の時点である。実際、広がる草原には、電信柱が1本しか残っていない。医師が現われた時には何本もあり、電線も通っていたのに・・・。
その時水があった井戸は涸れてしまっている。そして、その時にはなかった小川が流れている。その様子からすると、冒頭の場面よりは大分後の時点のように思われる。しかし、子どもたちは、その時と同じく幼児だ。一体、何がどうなっているのか?眩暈を起こしそうな混乱に襲われる。

ここまで訳の分からぬ場面が延々と続いてきたのは、この最後のショックを観客に与えるためだったのではないか?とすら思える。
タルコフスキイの映画の最後はどれも印象的だが、この場面もきわめて印象的だ。一度見ると中毒になる。

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