企業文化論

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私の企業文化論
森 浩一
序論

人 は、あるいは日本人はというべきかも知れないが、外国人が日本人と異なる文化、習俗、行動様式を持っていることにごく自然に慣れている。勿論幕末にペリー が黒船で来日した時代はそうではなかったであろうが、肌の色も眼の色もが違い、異なる言葉を話す人々が日本人と同じわけがないと思っている。そのような人 たちが日本語を上手に話し、日本の情緒を理解する時には一様に驚く。

しかし、日本人であれば大体の行動パタンは「読めている」と思い込ん で いる場合が多い。勿論関東人と関西人の対比はよくなされるが、それでも想定内と思い込んでいる。しかし多くの人は結婚して、それぞれの家庭で常識だったこ とが互いには必ずしも常識でないことを発見して軽い驚きを経験する人は少なくない。

日本では終身雇用制により一生を同じ会社で過ごす時代が長く続いたが、近年個人的には転職、企業側では合併などで、同一企業しか経験しないという人が減ってきた。

私自身もその一人で、サラリーマン人生の半ばで会社が合併して、新しい集団と合流した。そこで発見したのは知らぬ間に己の中に形成した企業とはこういうものだとイメージは己の幻想に過ぎなかったということであった。その幻想の源泉こそ企業文化というものであった。

このような集団がいつの間にか作り上げる集団文化とは何なのか、どうして作られるのか、それは何を意味するのかを考えるのが本小論の目的である。

 

私 は1965年に当時東京大田区の下丸子にあった北辰電機という会社に就職したのであるが、37歳で管理職になった直後の社内の研修で、日科技連から派遣さ れた研修講師の大黒さんという人から「部下は上司の背中を見て育つ」という言葉を教えられたのがいつまでも忘れられなかった。あるいは大黒さんが例に出し た元日銀の一万田総裁のエピソード(これは作為かもしれないが)が面白かったからであったかもしれない。一万田尚登総裁は法王の異名を持つワンマンでカリ スマ性のある人で8年の長きにわたって日銀の総裁を続けたという。大黒さんによればこの人は少し猫背で、背中を丸めて歩く癖があったが、長い間に部下が同 じ歩き方になったという。(マサカ!)ことほど左様に部下は無意識の間に上司の行動を自然に見習うので自戒せよというのが研修の趣旨であったのであろう が。

その前後から私はその頃よく読まれた日本人論を好んで読んだ。一世を風靡した土居健郎の「甘えの構造」、その流れを引く小此木啓吾の「モラトリアム人間の時代」などを愛読し、そのあと精神分析の流れで岸田秀の「ものぐさ精神分析」並びに一連の著作に行き当たる。

このような時に社長から当時のライバルの横河電機と合併交渉の密命を受けた。時に41歳であった。山あり、谷ありで難航もしたが、それから20ヵ月後の1983年4月に両社の合併が実現した。

私自身は上記のような精神的準備が出来ていたつもりであったが、いざ自分が渦中に置かれてみると新しい社会に適合するのに少なからざる意識の転換を必要とした。

このような経験が上記のような目的で小論をなしたいと考えた動機である。

 

表 題に企業文化論という仰々しいものを掲げたが、私がこれまで見てきた風景は極めて限られているからそこから一般論を引き出すのは僭越であることは分ってい る。だからこのためには自分以外の多数の人の経験を蒐集して多彩な風景を織り込まなくてはならない。しかし自分も含めて、これから蒐集する風景は、実は企 業文化というほどの大げさなものでなくて社風、あるいは一部の集団の癖であるかもしれない。しかし企業には一人ないしは数人の零細企業から10万人を越す マンモス企業もある。したがって一般論としては集団文化論という方がより適切かもしれない。集団は企業に限らず、地域(国、県、村など)、スポーツチー ム、学会、協会であるかもしれない。

ただ回りにサラリーマン、ないしはサラリーマンを卒業した人が多いので、このようなタイトルになった。

そういうことで海図のない航海を始める。

 

横河、北辰の合併で思ったこと

1983年4月に業界の一位と三位の会社が合併した。一方は国内有数の給与水準を誇る優良会社。他方は赤字すれすれの低空飛行を続ける会社。しかしながら三位の北辰電機は技術レベルでは一位、二位を凌ぐとも言われ、優秀な製品を供給してきた。

合 併直前の二つの会社の業績面での大いなる乖離は対等合併の建前はあるものの両社の従業員への心理への影響は少なからざるものがあった。横河にはこれだけ儲 かっている会社に何故貧乏所帯を抱え込むかという見方をしている人が多数いたのは事実だし、一方北辰の中には膝を屈して下座に座るのを潔しとしない気持ち を持つ人もいた。

それらの複雑な思いを両社のトップの指導力で合併の熱気の中に包み込んでいったのである。

両社のメインの ビ ジネスは工業計器で両社とも屋台骨を背負い、まともに市場で競合していた。正に昨日の敵は今日の友であった。横河には第二の柱に計測があり、その他にはま だ芽を出したばかりのOA(オフィスオートメーション)があった。北辰には第二の柱に機器としてくくられた舶用、航空、情報機器(ディスク、プリンターな ど)、AV(映写機関連)があったが、いずれも伸び悩んでいた。

したがって合併成功の成否の焦点は工業計器の分野の戦略に尽きた。戦略の 中 味は事業をどうもって行くかということと共に同じ分野で昨日まで仕事をしていた両社の人間を効率よく再配置し、かつモチベートしていくかという難しい舵取 りを必要とした。(競合しない計測、OA,機器に関しては、どうしても余剰の出る工業計器からの人材の補強を受けられたし、製造における製造拠点の統合を 除けば合併で根本から戦略を変える必要もなかったので、それほど複雑な問題が生じようも無かった。)

工業計器の開発や製造においても製品を統合し、人員を再配置する上で少なからざる軋轢のあったのも確かであるが、これは合併でなくても起りうることで大きな問題ではなかった。両社の80%の従業員は技術系であり、開発や製造は基本的には技術力が決め手であったからである。

し かしながら営業は一言でいえば人間関係で成り立つ仕事である。工業計器の営業は昨日まで競ってきた人間が今日から一緒に営業活動するのであるから合併にお いて最も難しい部署であった。客先は100%企業向けであった。後の言葉でいうB2B(business to business)である。両社の客先はあらゆる分野で重複していた。化学、鉄鋼、紙パルプ、石油など主要業種の客先には両社の主力製品が食い込んでい て、特に紙パルプは両社とも強くて、合併で新会社のシェアは80%にまでも達した。

合併の交渉の過程で横河をA社、北辰をB社と呼ぶことに 決めた。工業計器の営業統括であった美川常務は、合併発足の1年目に関して主要業種の営業には全て第一営業部長と第二営業部長を置いて、第一をA社出身、 第二をB社出身とした。そして1年目の成果で2年目からの組織を作ることを宣言した。美川常務は、B社側に不公平にならないように細かい点まで気を使った のは万人の認めることである。合併に先立って昨日の敵同士が集まって酒を酌み交わし、互いの手の内をさらして相互理解を深めた。

こうして横河の営業担当の美川常務の大きな構想力のお陰で順調な滑り出しをした。

折 から景気が回復しての追い風と合併の熱気に乗って、全体としては1+1=2以上の成果を上げた。そして1年経って2年目の営業組織を作る段になって結果と してB社からの営業部長は全て敗退して、2年目からの営業部長は全てA者出身者で固められた。B社の営業部長はヨーロッパ、シンガポール、オーストラリア など海外の拠点長として転出した。長い目で見てこの顛末は会社にとっても転出した個人にとっても良い選択であったが、どうして横河の営業部長が全勝したか の分析は必要である。A社出身の部長が全てB社出身の部長よりも資質が上であったとは思いにくいからである。

 

なお上記のようにB社の人間がA社の人間に比べて圧倒的に多くが海外に配置されたのは実は「全敗」だけが原因でないことは注釈のような形で以下に述べておく。

80 年代前半は急速に海外拠点を設立拡充していった時期であったが、B系のマネージャークラスは国内の過去の仕事のしがらみが(当然ながら)A系のマネー ジャーよりも少なくて比較的簡単に現職から引き剥がせる状況であった。更に、海外の実務の経験者と言う意味では、圧倒的にB系のほうが多かった。

こ れは清水社長の方針でもあったが、一人でも多くの「兵士」に海外を経験させる流れが、B社の中にあった。その最初はルーマニアジョブであった。北辰は 1964年頃ルーマニアに大規模な技術輸出に成功し、このための製品の技術移転のために多数の人間が生産現場でのルーマニア指導員として経験を積んだ。

次 に1973年に香港の淡水化プラントを受注してコンピューターを含む沢山の製品を受注した。ところが香港に送り出した製品が長期間倉庫に放置されたために 湿気でおびただしい量の製品がダメージを受けてしまい、契約の不備の故に北辰が責任を取らされて心ならずも大量の兵士をつぎ込む結果になったジョブであっ た。しかしながら此処で鍛えられた後の海外勤務者は少なくない。

更に磨きをかけたのは、1970年代のブラジルでの現地生産とシステムジョブであった。このジョブも単に生産の仕事だけでなく、多くの意思決定を現地で行わねばならない孤独との戦いに慣れさせたと言う意味で、それで育った人材が少なくない。

さらに後で述べるが技術提携したフィッシャーポーター社には技術系の常時駐在員を派遣しており、さらに会社からMIT,ケース工科大学、カーネギーメロン大学などに2,3年の留学をさせる制度があり、これらはアメリカ好み、新しいもの好きの清水社長の影響が大きい。

さて、話を戻して前記の「全勝」「全敗」の背景には二つの要素があったのではないかと推測する。

一つは知識の差、もう一つは文化の差。この二つの差にB社の人間が適合していくのには1年という時間は短すぎた。

最初に知識の差について説明を試みる。

ここでいう知識とは業務上の知識、あるいは技術的な知識とは一線を画した社内ルールの運営と言う知識である。以下いささか詳細な叙述に及ぶ。

全 国の企業の工場を相手に営業を行なうのに自前の営業では到底カバーしきれないのは当然なので全国の代理店を使う。この代理店の構造がA社とB社では大いに 異なった。営業規模が2倍くらい大きかったA社はより大きな代理店組織を持っていたが、大半の代理店は客先の口座を保有して横河から製品を買って自らが売 り上げていた。これに対してB社の代理店の多くはB社自身が客先の口座を持って、自社の売上にして、サポートしてくれる代理店にコミッションを支払うとい うのが主流であった。合併に伴い全国で代理店も重複するので代理店同士が合併したり、一部の代理店とは契約を解除したりすることが起きたのは当然だが、代 理店経由の販売は当然ながらA社のやり方が踏襲された。しかしこの方式は複雑なかつ厄介な問題を孕んでいた。それは工業計器を買ってくれる大手の客先(売 上の80%は大手客先であった)は工場を持っていて大きな物は本社の予算で買い、小さなものは工場の予算で買う場合が多かったことである。本社は横河が口 座を持ち、地方は別の代理店が口座を持っているというケースはザラにあった。さらに横河には新宿にある本社営業の他に大阪、名古屋、北九州に支店があり、 合併後その数は倍増した。となると営業の組織は本社、地方、代理店が絡んで複雑で、一つの客先を訪問するにも多数の部署との連絡を付けておかないと不具合 が生じるので必然的に帯同出張ということが多かった。合併後この傾向は拍車がかかり、大きな問題になった。この複雑な状況に対応するマニュアルが存在する わけでも無し、必要な事前の根回しや、手続きが理解されないままに行なうB社出身の営業活動が色々な齟齬を来たしたことは容易に想像できる。

な お主題と直接関係ないが、この時代より問題を大きくしたのは製品が急速に変化したことであった。昔の工業計器は検出端、変換器、表示計、指示計、コント ローラー、操作端などのエレメントを必要数客に供給するという単品販売の積み上げが中心であった。しかしながら70年代からコンピューターの発展も相俟っ て客先のニーズをエンジニアリングしてシステムとして組み込んで提供する、すなわちシステム販売に急速に移行しつつあった。したがって御用聞きセールスは 時代遅れになり、提案セールスが求められ、営業の本質の変化も求める時代が到来していた。代理店の幾つかは自らソフト部隊を持って時代に対応するところも 現れ、代理店のあり方が根本的に問われる状況にあった。

以上に述べた代理店問題を中心とした営業ルートの問題に加えて、もう一つ受注カウ ン トに関するややこしい問題が存在した。そもそも受注とは客先から注文書を受け取ることを指すのが基本である。製造は製品によっては在庫を持つこともある が、多くは受注を受けて生産にかかり棚卸を最小限にする。しかしながらシステム販売が増えて、足の長い(納期の長い)製品が含まれていると注文を受けてか ら生産を開始しては間に合わないことがある。ことにソフトウエアは客との仕様打ち合わせをして初めて詳細が決まるのであるから正式受注を待っていては納期 が間に合わない。一方ソフト製造を含む生産側は注文の来ない製品を作り出して不良在庫を作ってはたまらないから受注までは頑として着手依頼には応じない。 ここで営業が考え出した手法が「ジョブ登録」略してジョブ登である。特定の案件(ジョブと呼ぶ)はまだ正式受注にはなっていないが、営業責任で受注するか らここに登録したジョブは手配に入って欲しいと製造に要求する仕組みである。これは営業内で精査して、間違いなく受注できるというものを審査して登録する ものである。そしてこれは営業の受注数字にすりかわった。営業内では美川統括の下で極めて厳しいクオータ管理をして、毎週月曜の午前7時半からの早朝会議 でジョブがきちんとフォローされているかが厳しく議論されていたから、営業の部課長は眼の色を変えてクオータの必達に努力した。そして一部の人はこのジョ ブ登を悪用して、苦し紛れの受注水増しにまで発展した。ジョブ登しても遂には受注すればいいが、それが結局失注することもあり、それをカバーするのにさら に別のジョブ登をする悪循環も生じて、いわばバブルが生じて、それらを全て明るみに出して営業役員の更迭を含む大掃除をしたのは合併の10年後であった。

これらの悪用を含めて巧妙に立ち回ったのはそれらに精通したA社の営業が中心でこの点でもB社の営業マンは不利であったといわざるを得ない。

これを知識の差、ないしは知識のハンディキャップと呼ぼう。

 

次に文化の差について語る。

最 初の一年でB社出身の人間が学んだことは合併で初めてまみえた新しい同僚の行動様式が、今までの同僚と異なることであった。ちなみに管理職に到達するのは 働き盛りの40代半ば、入社後20-25年といった頃で、既に会社はこのようなものだというイメージを確立している時期である。この世代が最も文化の差を 感じたはずである。

ところでこの二つの会社は客観的に見ればとても似通った会社であった。両社とも戦前に企業家の横河民輔(横河電機)と 清 水荘平(北辰電機)が創業し、社長は創業者の血縁であり(横河は途中で一族以外が社長になった時期があるが)、どちらも似た製品(電気計器と熱電温度計) でスタートした。どちらも戦後に工業計器をメインにするようになり、一方は東京西郊の三鷹(横河)他方は東京の南端(大田区下丸子)に本社を構えた。どち らも大学卒の80%は技術系であり、どちらも早稲田大学が一番多い。それがどうして入社後20-30年で人が変わってしまうのか。

実際明 ら かにA社タイプとB社タイプが認められた。(この傾向はずっと尾を引いて、95年から私が欧州に赴任してオランダ人と親しく接するうちにあるオランダ人が 自分は誰が横河出身で、誰が北辰出身か大抵分かると言っていた。実際欧州に出張してくる日本人はマネージャークラスが多く、1995年から2000年時点 ではマネージャーは合併前の横河か北辰に属していたはずであったが、その行動様式の違いがオランダ人にも見て取られたということである。)

A 社タイプの典型は組織的に動き、根回しを忘れず、慣習は大事にして、本音と建前を使い分ける。上司部下の関係は厳然と存在して、自発的な行動は制約され る。後に社長にまで出世したU第四営業本部長が本部内の事前会議で指示したことが本部長会議で美川常務から正反対の指摘をされると何の反論も無くその通り でございますと応じて本部内の一同が呆れたということがあった。(そのUさんは後に横河電機の社長になって8年の長期を君臨することになった。)この例は さすがに珍しい事例ではあるが、このような「ヒラメ型」の人間(眼が上の方だけについている)は少なくなかった。ある技術部長が役員になって社内報に新入 社員にヒラメになるなと格好のいい文章を書いたが、その男が誰よりも上位の役員の顔色で行動していることをそこの部課長はよく知っていた。このような強い 縦の関係は組織的な活動には向いていたし、責任が明確で意思決定での曖昧さが少なくたとえ間違っていても馬力で押すのには向いていた。そう、確かにA社の 人間は馬力があった。製造の片桐常務がある席で、良い頭よりも強い頭が望ましいと言った。スマートに速断で結論付けるので無く、問題を考えて考えて掘り起 こし粘り強く解決する、つまり考え続ける頭脳の強さを求めたのである。これはB社の人間にあてつけて言った言葉ではないが、A社の人間の長所を言い当てて いると私は勝手に解釈していた。確かにB社の人間はこの点では良くも悪くも自主的な行動が支配していた。そして論理的な説明を優先し、馬力で仕事するより も考えて効率的に仕事することを好んだ。B社の典型はよく言えば個性豊か、言い換えると個人プレー、上司部下をあまり意識せず率直に本音をぶつける。A社 人間が粘り強く、努力を惜しまないのに比べて、B社人間はスマートにこなすとも言われた。一言で集約すればA社タイプは日本的文化を示し、B社タイプは西 欧的文化の傾向があった。だから上司からのムリ偏にゲンコツといった指示には従わない傾向があり、それは時に軋轢となった。このようなパタンは営業に限ら ずあらゆる部署で見られたが、人間関係をもって仕事する営業において最も顕著に現れた。

一方において成果に関しては情緒を排して厳密に行 な う文化がA社にはあった。だから責任の所在をどこに置くかに関しては目に見えないせめぎ合いがあった。1985年に数年前から手がけていた熱転写プリン タービジネスが全く立ち行かなくなり、それの終戦処理が必要になった。私は当時PMK(product marketing)部長としてその処理を行なう任務に着いていた。ところでこのビジネスからの撤退に関して「営業が製品を売ることに失敗したから」なの か「開発が競争力のある製品を供給できなかったから」なのかで営業責任なのか事業部責任なのかが分かれるところになる。B社出身の私にとっては会社として 撤退しなくてはならないことは明白なのでどちらでもいいことに思えたが、多田事業部長は営業から「止めたい」というまではこちらから言い出すことはないと いうし、営業側からは「事業部さん、止めたいならばそれでもいいですよ」ということで進まない。ごうを煮やして私がPMK部長の責任として「これを止めま す」というメモを発行したら多田事業部長から自分の許可無く勝手にメモを発行したのはけしからん、回収して来い、との命令を受けた。仕方なく営業に行って 美川営業統括に説明すると事情を百も承知の美川さんはニヤニヤしていた。

どうしてこのような行動様式の違いが生 じ たかには色々な議論があるが、私は合併前20年間の両社の外国企業との付き合い方の違いに求めてみたい。両社は共に戦後は工業計器を主力製品として業界で 競ってきた。電子機器製品の大多数がそうであるように、戦後の日本の工業計器は欧米、特にアメリカに大きな差をつけられていた。これをキャッチアップする のに時を同じくして両社はアメリカの企業と提携して技術導入を図った。横河は当時の業界のトップのFoxboro社と、北辰は Fischer&Porter社と組んだ。(もう一つの競争相手の山武はHoneywell社と合弁会社を作る選択をした。)この提携は両社の発 展に大いに寄与したが、相手との関係は対照的であった。

横河はいつも是々非々の立場を貫き、日本の産業が急速にキャッチアップして70年 代 初頭には早くもアメリカ企業と肩を並べるところまで来て、75年には提携を解消してしまった。(実際のところは強くなってきた横河電機を警戒してか Foxboro社から契約解除の通告をしてきたのであるが)一方北辰とF&P社の関係はトップ同士の強い信頼関係から出発していて、60年代から継続的に 北辰の技術者が2-3年の期間米国に駐在して技術の双方向の交換、切磋琢磨が行なわれてきた。駐在から帰国した技術者はその後北辰技術の指導的立場に立ち 強い影響力を与えた。

単に技術的交流に留まらず、1965年5月に清水社長率いる調査団がF&P社を訪れ、米国 流 の経営を学んできた。これの一つの具体化が65年11月に行なわれた大規模な組織改革に伴う部下長制度の廃止という思い切った施策であった。米国流のフ ラット組織を目指して部や課という階層を廃止すると共に部長、課長という呼び名も廃止された。部や課は部門、ないしはグループと呼ばれ、その責任者は「担 当」と呼ばれた。米国流にいえばマネージャーである。担当の間には上下関係がなく暫くは組織は混乱したが、この体制は以降14年間も続いたのであった。確 かにこの改革は組織のフラット化に貢献し、組織に捉われずに自由に意見が述べられる風土を生んだと思われる。フラット化とかフランクな発言という点では欧 米の会社はずっと先進国である。アメリカでもオランダでも若い秘書が社長をファーストネームで呼ぶのはよく見られる傾向である。(英国とドイツはそうでな いように思うが)北辰でも部長とか課長という言い方がなくなったので、○○担当とは呼ばず○○さんというのが普通であった。だから役員に対しても○○常務 というような言い方はせずやはり○○さんが普通であった。このような呼称も一つの雰囲気を形成するものである。

このようなアメリカ風な雰囲気は清水社長のアメリカ好みも影響していたように思う。

な お、ここまで書いて補足が必要なことを感じた。ここまで描いた両者の差が会社としての違いのように見えるが、実はこの差は正しく言うと両者のメインのビジ ネスエリアである工業計器事業の部隊の違いであるということを述べておくべきだと感じた。合併後私は数年間、横河の二番目の柱であった計測分野で仕事をし たことがあったが、こちらの文化は同じ会社と思えない雰囲気があって、むしろB社と共通する風土が感じられた。さらに違いは主に営業部隊に近い部署ほど顕 著で、そこから離れると(例えば製造や子会社では)違いは稀薄になるという観測もある。

またもう一つ補足すべきと思うことはこの違いが合 併 のあった1983年の時点を中心とした時点の違いであって、それがずっと昔からそうであったと主張しているのでもない。北辰電機の創業者清水荘平が健在で あった頃の話ではそのカリスマぶりは徹底したものであったらしい。昭和39年に会長として退いても隠然たる存在感を示していた。月に一度鎌倉の邸宅から会 社に現れて1-2時間長広舌を振るう間、全役員は黙してお話を承る様子だったと当時の関係者が伝えている。そのような状況では私が描いたようなリベラルな 雰囲気が生れるわけがない。

一方で横河電機の合併時の社長であった横河正三は1973年に米国ヒューレット・パッカード(HP)社との合 弁 会社である横河ヒューレット・パッカード(YHP)を成功させて社長として凱旋したのであったが、HPの米国流経営を学んで役員会で自由に発言できるよう な雰囲気を実現した。そこからは杉田晶質氏(1985年まで横河電機常務)のように正面から横河正三に直言する強者も現れて、経営に活気を添えることにな るが、このようなリベラルな雰囲気は私が先に描いた違いとは別物である。

以上の補足は企業文化の形成過程を考察するのに見落とせない観察である。

 

厳然と存在する企業間の文化の違い

 以上は偶々横河、北辰というライバル同士の合併の渦中にいたことで間近に見聞したことを記述したのであるが、その気になって観測すると色々なところで企業の色が垣間見えて面白い。

70 年代に初めて八幡にある旧八幡製鉄の本社のあったオフィスを訪問した。天井の高い戦前からの建物の中に入ると整然と机と椅子配置されていたが、両袖の椅子 に白いカバーの掛けられた中央の大きい両袖の椅子と大きいデスクが部長席、その前の中位の椅子と机が課長席、そしてその前に向かい合わせで平の席と一目瞭 然なのにびっくりした。後で分ったのは官庁でも、そして何よりも合併直後の横河電機でも同じであって日本の会社では不思議なことではなかったらしい。それ は自分が北辰のようなフラット指向の会社に育ったからであったからそう思っただけであるらしい。

2005年ごろある用件で相模原にある三 菱 重工業の工場を訪問した。訪問の相手はオランダ勤務の頃住んでいたアパートの隣人であった吉田工場長、既に三菱重工の取締役であった。正門で来意を伝える と下へも置かない扱いで人事担当の課長が門まで出迎えてくれた。ここでは工場長は神の如き存在で、神の来客は神の如く遇するものらしい。三菱重工がいかに 大会社かというと三菱電機の社長は重工の課長並のレベルだという話がある。それくらい重工は権威があるのだ。その2年後くらいに別の用件で品川の三菱重工 の本社を訪問した。それは吉田工場長の紹介で実現したのであるが、その時にアポイントメントのメールのやり取りの中で不思議な言葉に遭遇した。それは「下 名」という言葉である。字源や広辞林によれば拙者に類する古い言葉で、既に金田一の新明解国語辞典ではその意味での「下名」は見当たらない。ここに重工の 脈々たる伝統を垣間見た思いがした。あとでインターネットで調べたら下名、架電は三菱でよく使われる言葉であるとのこと。

さて、上に書い た 三菱重工の課長が三菱電機の社長と同格という伝説を欧州で知り合った元オランダ三菱自動車の横山龍彦氏に確かめた。三菱自動車という会社は元々三菱重工の 一部門であり、終戦後三菱重工が三菱日本重工、新三菱重工、西日本重工(三菱造船)に産分割され、それが1964年に三重工合併で三菱重工が再出発し、さ らに1970年に三菱自動車工業が独立したものである。横山氏によれば電機の社長が重工の課長と同格かどうかは知らないが、三菱重工でも頭の上がらない会 社が三菱商事と三菱銀行で、やはり金を動かしている三菱銀行が一番幅を利かせているとのことであった。三菱自動車には京都、岡崎、水島に事業所があるが、 その三つがまるで雰囲気が違って地域文化の違いではないかと感じていたそうである。

同じ頃機会があってトヨタ自 動 車の本社と日産の栃木工場を訪問したことがあった。同じような用件であったが、トヨタは担当者レベルがどんどん自分で決めてその代わり細部まで入念に確認 する態度であったのに対し、日産では親切に応対してくれるものの肝心の意思決定は後日上司と相談してからということではぐらかされた。トヨタは大会社に なったが、出発点のベンチャー魂が今にも受け継がれているのかなと日産と対比して思った。

バブルがはじけた90年代以降、企業構造の変革を求められてきたことで至る所でリストラや合併が行なわれるようになり、企業文化の差が顕在化しやすくなった。

古 くは1971年に第一銀行と日本勧業銀行が合併して第一勧業銀行が登場したが、この合併はたすき掛け人事や頭取の順送り選出で融合の進まない典型例として 知られている。2000年に富士銀行、日本興業銀行との三社合併でみずほ銀行が登場するまで虎ノ門交差点の周りに第一勧業銀行の支店が二軒存在し続けた。 いうまでもなく旧第一銀行の支店と旧日本勧業銀行の支店であった。みずほ銀行になっても暫くの間は旧富士銀行の支店もあって三つのみずほ銀行の支店が虎ノ 門に存在する時期があった。ついでにこのみずほ銀行の合併で次のようなことを目撃したことを追記する。みずほ銀行は2000年4月に発足したが、私が駐在 したオランダでは日本に先駆けて1999年10月に発足した。富士銀行小野さんと第一勧業銀行の近藤さんという二人の現地社長(近藤さんが新会社の社長に なった)とはオランダのJCC(日本商工会議所)を通じて親しくしていたので合併の直後二人が会社に挨拶に見えた。この二人は穏やかな人柄で、横河のメイ ンバンクが富士銀行であったことも関係して小野さんには個人的にも随分お世話になった。この二人はドイツから出てきた日本興業銀行の方を同行して来た。こ の人は型破りというか、傍若無人というか、兎に角銀行マンとは思えないような人で驚いた。同行してきた二人もただ黙って見守るばかりであった。あとで小野 さんに聞くと日本興業銀行は元々半官半民の会社で企業に融資するための会社であったから官庁的な体質があって、あのようなタイプの人が多いとのことであっ た。

同じく銀行の合併であるが、1996年に三菱銀行と東京銀行が合併して三菱東京銀行が誕生した。この二つの 銀 行は対照的な社風を持っていた。三菱銀行は旧三菱財閥に出発点を持つ大きな都市銀行であった。この合併は大が小を飲む吸収合併であったが、東京銀行(通称 東銀、ないしはBOT=Bank Of Tokyo)は海外に強いこととリベラルで男女差を排除して女性の優秀な行員の多いことで定評があった。事実国内に強い三菱銀行と海外に強い東京銀行とい う補完関係があることがうたい文句でもあった。しかし大銀行である三菱銀行には官僚的、権威主義的な風潮があった。合併後旧三菱の行員から東京銀行出身の 女性行員が「お茶!」と言われて唖然としたという話が伝わっている。この結果優秀な東銀出身の行員が辞めて外部に新しい職を求めたのが少なくないと言われ る。この話は高校の同級生で東銀でジャカルタやロンドンに駐在したことのある田中一光から聞いた。

 

企業文化の融合でより良き企業文化を形成

以上述べてきたことはどちらかというと自然発生的に生じた企業文化が合併などで交わることで生ずる軋轢にやや焦点を当て過ぎたという点が無きにしも非ずである。

しかしながら違いを生かしてより高見に上る事が出来たらこんな良いことは無い。

欧米ではよく知られるように人の移動が極めて流動的である。したがって人が企業色に一色に染まることは無いがそれでも企業文化は存在する。

ま ず私が6年半勤めたオランダにある横河電機の欧州子会社のYokogawa Europe B.V.での体験を見ておこう。この会社は1982年にオランダの首都Amsterdamの西50kmにある小都市Amersfoortにあった分析計の 会社Electrofactを買収した工場付の欧州全域の販売会社である。日本の会社が欧州に販売会社を持つ時に本社を置く国は英国が一番多いが、次が大 きさに勝るドイツではなくてオランダである。それは流通の便と言葉の問題である。(オランダ人の80%は流暢な英語をしゃべるばかりでなく多くはドイツ語 も時にはフランス語もあやつる。)Electrofactは全欧州に子会社を持っていたし、その販路は工業計器にぴったりであった。(分析計は工業計器の 一つの範疇)従業員はそのまま引き継いだから駐在日本人を除けば昔のままで、しかも横河の方針として現地主導を掲げていたから製品が入れ替わっただけで企 業文化はElectrofactのままにスタートした。良きオランダ人の集団で、仕事のテンポは遅く、約束もなかなか守られない。90年にKen Bushという英国人を社長に据えて改革に臨んだ。Bushはオランダ人を信用せず、日本の本社にも強気の姿勢で臨み改革を進めた。しかし残念なことに2 年足らずで在職中に心臓発作で急逝した。彼が行なったもっとも大きなこと(と私が思う)はライバルのFoxboroのキーマンの採用を行なったことであ る。Foxboroはアメリカの会社で70年代以来Honeywellと並んで工業計器の世界では常にトップを走っていた会社で、70年代には横河電機と も技術提携をしていたことは先に述べた。80年代半ばから新しい競争相手Rosemountの台頭、欧州勢(Siemensなど)の追随で圧倒的な強さに かげりが見えてきた。Foxboroの欧州の子会社は何と欧州横河の本社のあるAmersfoortの隣町のSoostにあった。91年にBushは Foxboroから稀代の大物のスカウトに成功した。それがHans Dikである。Hansは1940年生まれ、デルフト大学(オランダには15の大学があるが理科系の大学はデルフトとアイントホーフェンとツベンテの三つ だけである)を卒業して米国に行き、Westinghouseで働いた後にFoxboroに入り、オランダに戻って欧州FoxboroでMajor Account Managerを勤めた。Major Account Managerはシェルやバイエルなどの大手客先専門に大口の注文を取る花形セールスである。Hansは容貌魁偉、大男で眼光炯炯、鬼のような風貌で、カ リスマであった。Hansが欧州横河に入るまでは販売製品は基本的には記録計とか流量計などの単品製品販売でElectrofactの販売網には適合する が、本格的なシステム販売には遠かった。それには横河の主力製品であるCENTUMの販売が不可欠であった。それまでも日本の海外営業の努力でシェルなど の大手会社にはCENTUMは評価されていたが、現地で全面的に売り、メンテする体制には無かった。Hansは直ちに古巣のSoostから人材の引抜を敢 行し、幾多の有力なメンバーが加わった。Hansは強力なネゴシエーターで、日本人には到底出来ない強い交渉で物事を有利に運ぶ才があった。それはドイツ の計測器の会社nbn

を傘下に収める時にも発揮された。nbnの社長であったブーリンガーはさぞや辟易したであろうことは想像に難くない。(Hans自身が横河欧州に参加する時の雇用契約条件にもタフなネゴがあったという噂である)

さ て、そのような流れで欧州横河の本社のmanagementにFoxboro出身の人材が増えてきた。90年代後半にはドル高、ギルダー安の時点もあり、 日本から製品をドルで輸入して販売するのが大変不利に働き、これに対してリストラを敢行して人減らしの音頭をとったのもHansであった。こうして Electrofactの甘い体質を改め、システムを売れるような会社に変え、世界に先駆けて(といっても横河の中の話だが)SAP(ドイツのSAP社の コンピューターによる経営情報システムの名前でこの市場のリーダー)を導入してインフラを整備した。ちなみに95年から欧州横河のマネージメントに参画し た私はHansと年齢も同じ、同じようなバックグラウンドで話は通じやすかった。私の滞在6年半の中でもっとも大きな試みだったSAPの導入では私が導入 に反対する本社の説得の役に回った。(その本社が後に全世界にSAPを導入することを決断することになる。)Hansはこのように極めて強い性格だったか ら私との間でもしばしば対立があったが、この強いリーダーシップには私は脱帽せざるを得なかった。

こうして彼は99年に欧州横河の社長に なった。実際Foxboroという会社は米国の会社が一般的にそうであるのと同じくマーケティングを重視していた。(横河正三社長がHPのマーケティング に感銘して70年代にマーケティングを強く推進したのはよく知られている。しかし横河社長をしても横河電機を米国企業並みにマーケティング主導の会社に変 えることはできなかったが)客へのアプローチ、客の要求を会社にフィードバックする強さなどでセールスが主導権を発揮するのがマーケティングであるが、そ の文化が欧州横河に伝えられた。Foxboroの製品開発がマーケティングの要求に十分応えられなかったのがHansの転職の一つの理由かもしれない。そ の一つの証左にHansは横河のDCS(direct control system=コンピューターを内蔵して従来の個別コントローラーに代わって工場の制御を行なう装置)は客に持って行って電源をいきなり入れてすぐに動く のは信じられないと言っていた。Foxboroの製品は一昔前のコンピュータ同様事前に一つ一つ微調整が必要だったことを物語る。横河の緻密な技術の積み 上げから来る品質とElectrofactの勤勉な従業員とFoxboroからの新しい血の融合の上に成り立った新しい企業文化。この変化に対して Electrofact時代からの従業員にはYokogawaはYoko-boroになってしまったと嘆く向きもあったが、それからさらに数年で、ユーロ 高も追い風になって欧州横河は全横河の優等生になった。これを企業文化の融合の好例と呼びたい。

 

企業文化の層別

 私の乏しい経験だけで企業文化はこのように分類できると主張するのは甚だ僭越であるが、試論として敢えて述べて見たい。その層別の観点を「変化への対応の仕方」に求めてみる。

企 業は生き物に例えられる。注文を取って生産し売り上げて、それによる利益を再投資して成長する。また客の要求するものを的確に把握して求められる製品を開 発、生産してそれを使ってもらうことでまた新たな要求をくみ出してより新しい製品を開発して成長する。これらのサイクルの間に世の中の環境が変わるから絶 えず風を見て帆の張り方を調整して方向を見定めていかなければならない。時にはある分野を放棄して新しい分野に取り組まなければならないことも出てくる。 このような変化への対応をよく農耕民族的対応と狩猟民族的対応に分類されることがある。

農耕においては毎年同じサイクルで地道に努力をして時に冷害、旱魃の受難もあるが、基本的には安定した生活が営まれる。したがって農耕民族は不規則なことを極力排除して例年と同じように送れる事を祈願する。

一方狩猟においては待っていては何も得られないから何かの計画を立てて攻撃を仕掛けることが必要である。成功すれば大きな収穫があり、失敗すれば餓えに苦しむ。毎年同じということはありえないから常に動いていかなければならない。

江 戸時代鎖国していて平穏をむさぼっていたのが1854年ペリーの黒船来航で上へ下への大騒ぎになり遂に徳川幕府が瓦解したのは農耕民族が狩猟民族に刺激さ れたのに対比される。それは80年代終りにバブルが破裂して、時を同じくして急速なインターネットの普及がもたらした根本的な企業構造の変革への要請と良 い対比である。このような時点で今まで存在しなかったような会社が勃興してきた。米国のグーグル然り、日本のソフトバンク然り。それに対しその時点で存在 した企業がこのような変化への対応でどのような振る舞いをするかは企業文化が強い影響をもたらすと思われる。

 

大企業病とオムロンそしてIBM

何故か京都には特異な分野に着地して急成長するベンチャーが多かった。村田製作所、堀場製作所、ローム、日本電産、京セラ、島津製作所、ワコールなどなど。その一つに立石電機のちのオムロンがあった。

大 企業病という言葉はよく耳にするが、この言葉を初めて使った人はオムロンの創業者の立石一真氏だと言われている。オムロン(当時は立石電機)は1983年 に創業50周年を迎えているがその年の年頭挨拶がオムロンのホームページに載っている。「大企業の仲間入りをした立石電機は、大企業病にかかっている。大 死一番、意識革命に徹し、創業の精神に還り、徹底的分権により中小企業的な組織と簡潔な制度で活性化を図ることこそ、五十周年にふさわしい大仕事である。 全員でこれに挑戦してほしい」。この時一真氏は83歳、既に4年前に長男に社長の座を譲り会長に就任していた。優良な企業は成長する。創業時の活気溢れる 雰囲気は、企業規模が大きくなるに従い、互いの意思疎通を失い、やがて動脈硬化に陥り、動きが鈍く外界の変化に追随できなくなる。これを大企業病と呼ぶ。

これを論ずる前にオムロンという会社の沿革を眺めてみる。

1900年生れの立石一真は1933年にレントゲン写真撮影用のタイマーの生産で立石電機製作所を創業した。基本はリレーないしはスイッチという電子部品であったが、その応用製品として自動改札やATMなどをいち早く商品化して急成長した。

もっとも名声の高かったのは信頼性の高いリレーであった。

そ のリレーに転機が訪れたのは1970年代のPLC(programmable logic controller)の出現である。PLCは1970年ごろ米国Modicon社が発表した機械式のリレーを置き換える専用コントローラーで、多数のリ レーの組合せをラダーダイアグラムという図面で表現していたものをそのままインプットするとそれが電子的スイッチの組合せで実現できるという製品であっ た。新しいものにはすぐ眼をつける立石電機が当然その開発に着手していち早く日本市場に出せるところにこぎつけた。

こんな製品を出したら 今 までの利益の多いリレーが売れなくなるのではないかという営業の声もあったという。これはどこでも見られる風景である。この製品は現在のビジネスの柱であ る制御機器分野を確立し、一時は三菱電機と共にPLCの二巨頭として君臨した。(今は三菱の後塵を拝しているようであるが)

さて、いち早く大企業病を自覚し、1987年に三代目の社長に就任した立石義雄氏もこの撲滅に情熱を注いだようである。1990年に社名をオムロンに変更している。

義 男社長は一真創業者の血をもっとも濃く受け継ぐ人であったようである。しかしながらオムロンOBのある友人によればかつての自由な雰囲気には戻らず、やは り管理社会の枠組みの窮屈さは以前とは違っていたという。このオムロンをしても大企業病からの完全な離脱は難しかったのであろうか。

これに関連して別の事例からの観測を見てみよう。

2002年11月の日本経済新聞の私の履歴書に登場したのはその年の2月に9年間勤めた社長から会長に退いたIBMの前社長ルイス・ガースナーであった。ちなみに彼は創業者のトーマス・ワトソン・シニアを除いてもっとも長くIBMの社長の座を勤めた人である。

初 めての外部の人間としてIBMの社長として着任した最初の経営幹部との会合に臨んだ時出席した全員が白いワイシャツを着ているのに対して、彼だけは青い シャツで出席した。その次の会議の時に見てみると皆がカラーシャツを着てきて、自分だけが白いシャツを着てきた、というエピソードから始まる30日間の読 み物は翌日が待てないほど面白かった。そしてそれの終るのを待って12月初頭に、この記事のネタ本である「巨象も踊る」Who Says Elephants Can’t Dance?が発行された。これは実に魅力的な本であった。PCの出現、インターネットの発達などの情報の世界の革命で永く情報の世界に君臨してきた IBMは90年代になってメインフレーム事業の落ち込みによる深刻な経営危機を迎えていた。絶滅寸前の恐竜と揶揄されていた。こんな時に情報産業とは無縁 のナビスコの会長であったルイス・ガースナーがヘッドハントされてIBMに来たのであった。

ガースナーは9年間でIBMを完全に帝王の位置に復活させるという離れ業を演じたが、その成果は転落直前の応急手当(30万人の従業員を12万5000人減らしたなど)、戦略の再構築、そして企業文化の抜本的変更であったといわれる。

彼はこの本の中で企業文化を次のように位置づけている。

「IBMでの約10年間に私は企業文化が経営の一つの側面などではないことを理解するようになった。一つの側面ではなく、経営そのものなのだ。」

「ビ ジョン、戦略、マーケティング、財務管理の側面が正しければ、そして、経営システムの他の側面が正しければ、正しい道を進むことができ、しばらくは成功を 収めることができる。だが、どんな組織も企業に限らず、政府、教育機関、医療機関などどんな組織であろうとこれらの正しさがDNAの一部になっていなけれ ば、長期にわたって成功を続けることは出来ない。」

「ある組織に行くと早ければ数時間で、どのような文化が好まれ、どのような文化に従っ て 行動すれば処罰を受けるのかを感じ取れる。個人の実績を高く評価する文化なのか、それともチームプレーを高く評価する文化なのか。リスクをとる姿勢を重視 する文化なのか、合意を重視する文化なのか。」

IBMは永年、創業者のトーマス・ワトソン・シニアが示した次の三つの原則に忠実に従ってきた。

  • 完全性の追求
  • 最善の顧客サービス
  • 個人の尊重

実際これはIBMの隅々まで徹底して、IBMの企業文化を形成していくのであるが、その成功の裏で次第に硬直化して、企業環境が変化しても、その中味を変えることが出来なくなったことが問題であった。本書の中で彼はその実例を数々挙げている。

会 社の仕事はライン業務とスタッフ業務に分けられる。ラインとは営業、製造、製品開発のように直接利益を生み出す仕事である。スタッフとは人事、経理、情報 システム、マーケティングなどラインを支える仕事である。彼は勿論スタッフの存在は否定しない。ところが会社の規模が大きくなることでスタッフという調整 部門が肥大化すると共にその使われ方が問題になってきたのだと分析している。私自身会社人生の後半全部がスタッフとしてあらゆる形の調整に関わってきた が、IBMほどではないが、対外活動を忘れて社内抗争でのエネルギー空費を見てきた経験がある。

ルイス・ガースナーはこの企業文化の問題に真正面から取り組んだ。まず八つの行動原則を示し、後にそれらを次の三つの言葉に集約した。

  • 勝利
  • 実行
  • チーム

本書の終章の近くで、先に述べたいわゆる大企業病に関して彼は次のように喝破してみせる。

「わたしが企業経営にたずさわってきた時代のほとんどにおいて、小さいものは美しく、大きいものは醜いという考えが正しいとされてきた。小企業は敏捷で、起業家精神に富み、反応が早く効率的だ。大企業は鈍重で、官僚的で反応が鈍く、効率が低い。これが今の常識である。

まったくの戯言だ。

大きいことはいいことなのだ。規模は力だ。幅と深みによって巨額の投資、思い切ったリスク負担、投資の成果を根気強く待つ姿勢が可能になる。

象が蟻より強いかどうかの問題ではない。その象がうまく踊れるかどうかの問題である。見事なステップを踏んで踊れるのであれば、蟻はダンスフロアーから逃げ出すしかない。」

そ ういえば私は本当に大きな企業の企業文化を知らない。大企業病という言葉は元は小さな企業であったのが、大きく成長した後で昔と比べて変わってしまったこ とを反省して使われる言葉でずっと昔から大きかった会社ではあまり使われない言葉かもしれない。また本当に大きな会社でなければ出来ない仕事というのも存 在するのは事実だ。造船、プラント建設、自動車、通信や鉄道のような社会インフラなどは規模の大きな企業でないと手がけられない。

 

中川紀郎氏のコメント

 2011 年6月に久々に東大の電気・電子工学科のクラス会が実現した。この席で会った中川紀郎氏と企業文化に関して盛り上がった。中川氏は当時の電気・電子の卒業 生としては異例な三菱商事に就職し、海外ビジネスに関わった。70年代末から80年代にかけて中国上海宝山製鉄所建設プロジェクト(略して宝山プロジェク ト)が出現した。これは20世紀最大のプロジェクト、例を見ない大規模技術移転としてプラントに関わるものは誰も着目したものである。この技術移転は当初 は新日鉄が選定され、日本側は5社のコンソーシャムを組んで臨んだという。このコンソーシャムのコーディネーターを務めたのが中川氏であった。その立場だ から5社の文化の違い、そして国の文化の違い、そして三菱商事自体が大きな会社だから社内の部門の文化の違いを沢山経験している。だから彼は私の企業文化 論に誰よりも熱く反応した。

中川氏は語る。企業ないしは部門の文化はそこのトップが作れるし、変えられる。問題はその文化が、それを含む 一 段上の組織の文化と大きくはずれる場合に必要になる調整は、そのトップが上の組織体からなされる能力評価に直結すると信じている。つまり自部門の独自性 (自部門の独自文化)維持しつつ上の組織との折り合いをつける能力こそトップに求められる最も必要な能力だということであろう。こうして生き残った文化は 時に上の組織の文化を吸収することがあるかもしれない。

先に私は三菱グループの中に存在するハイアラキーのようなものに言及したが、これに対して中川氏は、老舗の重工、郵船、生命、銀行、キリンなどは、いつまでも既に遅れた文化を継承してグループ内で、かつては発言権が強かったかも知れないが

これらの会社は全て、多かれ少なかれ競争に立ち遅れ、むしろ今は三菱商事、三菱電機がひっぱっているのでは無いかと思うと語る。

いい文化は維持する必要があれば絶対維持しなければならないが、時代と共に、文化を変えられないトップは、すぐ引退した方がいいというのが彼の持論だ。

 

官庁もまた

 最近長く松下電気(現パナソニック)に勤務していた友人が興味深いメールを送ってくれた。それはいわゆる官僚主義といわれるものの形成過程の一つを如実に示すものであるので以下にそのまま引用する。

ひょんなことから某省某局長のキャリア研修時のレジメが手許に舞い込んできました。

「政策官僚への道いろは」なるタイトルの中、いくつかの驚き(少なくとも小生には)の

項目をご紹介致します。

 ⑴ 絶えず奇を衒う(目新しくないと注目を浴びない)

 他人の迷惑を恐れない(他人への配慮など考えていたらやっていられない)

 絶えず20年~30年先の話をする(こんな先は誰にも分らない、長期的視点と感心される)

 夢と現実との区別を無視すること(実現可能など考えていたらやってられない)

 

なんとも乱暴な言葉ばかり並べられていると思いながらも、妙に納得させられてしまうのは

どうしてであろうか、このくらいの図太さがなければ生き残ることができない世界に身を置か

なかった(置けなかった)、我が巡りあわせに感謝したい気持ちで一杯です。

このような上司の背中を見て、かつこのような考え方で評価されてどのような人間が育ち、どのような文化が形成されるか。少なくもまともな企業では考えられないことが官庁(の一部では)まかり通っているのであろうか。

2015.4.19更新

 

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