幽霊戦闘機

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幽霊戦闘機

辛嶋 修郎(平成23年6月3日記)

  

   七十歳を過ぎると、父 辛嶋 實のことを少し調べたくなった。それは、自分の人生経験に照らして、父の生涯を考える余裕が出てきた兆しからか。

父は会社人間だったが、私が子供の頃は会社で何をしていたか私に話すことはなかった。元来、父が寡黙であったせいか、それとも教育者の家に育ったことによるのか私に話すことは論語のことや元旦の書き初めで自分が書いた字句の説明であった。尤も私が歳を取りすぎて父の説教など嫌なことは忘れてしまったのかもしれないが。

そして、私が勤めだしたからは父の話は自分の仕事の内容よりも時局の話が中心であった。それに双方とも仕事で忙しいため顔を合わせる時間がなかったともいえるが。

父が八十歳を過ぎて、退職してからは、父の話(私の記憶にある父の話)は父の祖父望山さん(辛嶋 銀兵衛)のことで、一代にして財を成すとともに絵画、俳句に親しんだという話であった。そして「立派な人」という話が中心でその他の自分の会社生活ことなど自分自身の話はしなかった。

私の自慢の一つに日比谷高校で選ばれたことがある。名門日比谷には勉強ができる生徒は言うに及ばず教養がある成熟した生徒も多数おり何かで自分が選ばれることはまずなかった。学校側も生徒各々にプライドがあるから名指しで選ぶようなことはなかったのかもしれないが。

社会科の授業で自分の親について書く宿題が出され、クラス五十人中、二人が自分の書いた作文を皆の前で読むように先生から指名された。一人は戦前の横浜正金銀行に勤務した父親のことを書いた生徒でもう一人は「私」であった。

私は、父親が戦前カヤバという飛行機の脚を作る軍需産業に勤務し、敗戦とともに倒産、戦後ナベ、カマ、自転車を作り食いつないでいたが朝鮮動乱で息がつけるようになり、オートバイで先が見えるようになっている話を書いた。(作文の記録はないが今にして思えば日本の産業史そのものであり、だから社会科の先生が指名したともいえそうだ。)しかし、昭和三十三年当時ではその後の日本の奇跡的な産業史を先生が予測していたわけではないからやはり、戦前、敗戦直後の産業史として意義付けたのだろう。

父は昭和十二年神戸商業大学(今の神戸大学)を卒業してカヤバに就職した。大学では日本で初めて経営学博士となった平井泰太郎先生のゼミ生で、そこに就職案内がきたのがカヤバだからということで就職したと私はきいていたが。「大企業よりもベンチャー的中小企業で働いた方が生きた経営学が実践できる」と先生が勧めたのかもしれない。平井先生は偉い、先見性があると常日頃私にも言っていたから。しかし、いずれにせよ父にとってはエンもユカリもない東京の企業に就職したわけだ。今思うとその時初めて東京に行ったのではないか。(大学の卓球部の大会が東京であったかもしれないが何も東京のことに触れたことがなかったからなぁ)大分の豊前善光寺という田舎から台湾の高商に行きそこでいったん就職しそして一念発起して神戸の大学を受験したのだから。

「カヤバ製作所」という企業、そして社長は発明家の萱場資郎、飛行機の脚を作っていた企業としか聞いた記憶がない。

そこで父の本棚にあった「風雪と激動の四十年」(萱場工業株式会社刊)を取り出して読む。カヤバの四十年史だが、カヤバの戦前史がこんなに面白い、しかも、血湧き、肉躍るものとはこの歳になって初めて読んでわかった。

これが発刊されたのが昭和五十年。私は通産省の現役役人、父も現役。一言私に「読んでみろ」と勧められていたらもっと父との会話が進んだのにと今更ながら悔やまれる。(いわれても自分に自信過剰になっている若いときは読まないものだが)

「昔は今の鏡」という。どうも戦後日本人は「昔は昔、今は今」という教育あるいは世論に馴らされてしまったみたいだが、年を取ってみるとそれは「どうも?」という感じになる。若い人にお節介をしたいのではなく行く末短くなると自分の住んでいた社会や国が自分以上長く進歩、発展してもらいたい気持ちになり、過去の過ちを繰り返さないよう一言言いたくなるのだ。

「カガミ」は現在の自分の身を写してみて自分の身を反省するためにある。反省の基準はなにか?着こなしならすぐわかるかもしれないが反省となると中身が多様だ。だから「歴史書」のことも鏡というのだろう。

産業政策に携わっていた自分として、何を「カガミ」として当時いたのかと想い出してみているが、学者が書いたアメリカ流の産業政策を読んでいたことしか頭に残っていない。日本の学者が「アメリカでは」を連発した書物である。

カヤバの四十年史の戦前部分は是非、今でも、今でもというより今こそ読み直すべき名著だ。

なぜ名著か?

日本は太平洋戦争でアメリカに物量で敗れたと我々は習い、戦後アメリカの裕福な生活を見るにつれ「成程」と思う。しかし、何故、敗れる前に「日本は敗れる」といわなかったのか。軍部独裁だからいわなかったのか。いえなかったのか。

それも一因であろうが敗れるという現象を戦う前から日本国民や有識者がとらえていなかったのではなかろうか。

カヤバは、東北学院出、早大中退、弱冠二十歳代の萱場資郎さんが海軍の嘱託(大正十年の二十三歳のとき)になることに端緒を発する。

技術は国境を越えるというが、軍事技術は別だ。まさに「機密」だ。とりわけ、欧米列強との競争が激化する昭和に入ってからは機密化が一層進む。明治以来、欧米追従を目標にしてきた日本は軍事技術についてはそれができなくなる。敵もどきの日本に軍事技術や製品を輸出して自らが叩かれる運命になる戦略をとる国はいない。だから、日本海軍も技術開発ができる人材を求めたのであろう。二十三歳の独立した若造そして自称青年兵器研究家と称していた人を嘱託にするくらいだから。

航空母艦から飛行機が簡単に離着陸するのを今では戦争映画で見るが、当時は甲板上に色んな風よけ装置などを置き、飛行機の着艦時に大がかりな人力で操作したそうだ。それでも風が強いと海上へ墜落ということがあった。

日本最初の航空母艦鳳翔での飛行実験でも英国方式を採用していたため英国人のパイロットは着艦出来たが次ぎに飛んだ日本人パイロットは着艦出来ず海に転落した。

萱場資郎氏が発着艦自動コントロール装置を考案し一人でも操作できるようにしたのが大正十五年。二十八歳のときだ。日本海軍は太平洋戦争末まで二十五隻の航空母艦を建造しているがそれらにすべてこのカヤバの油圧制動装置がついている。航空母艦同士の戦い事例は歴史上日米が初めてでしかもそれ以降ないそうだ。如何にこの装置が戦果に優劣をつけたかがわかる。ちなみにアメリカではすでにこの油圧による自動コントロール装置をつけていたがイギリスは旧式を採用していたわけだ。

昭和二年従業員四十三名の個人経営の萱場製作所が発足し、直ちに同年二月、海軍機密指定工場となる。萱場さんは二十七歳のときだ。そして陸軍からは陸上カタパルトなどの開発プロジェクトを受託している。陸軍からは昭和五年指定工場の指定を受けている。(カタパルトというのは中世の投石器のことを言うが、航空機が飛び立つために十分な飛行甲板を持たない場合に飛行機を射出させ離陸速度を確保させるものをいう。)

陸海軍も自陣に開発できる人材を擁しておらず開発能力のある人は萱場資郎しかいなかったのか。そこで彼に相談し、注文する。彼一人の天才に望みを託していたわけだ。そしてこの注文に生産体制も組織も順応できるよう昭和十年三月十日の陸軍記念日に株式会社萱場製作所が発足、従業員百八十名にもなったが、工場長クラスは三井物産、芝浦製作所(今の東芝)、陸海軍予備役軍人出身でプロパーは萱場さん以外はいないという状況だった。

父が入社した昭和十二年は、日中戦争が起こった年。戦時体制作業示達があった年でもあり、従業員数は八百七十名。(三年間で五倍増)四十年史によると「当時の陸海軍は除隊者の中から特に成績優秀者を選りすぐって萱場へおくり込んだ形跡があり、」とあり、それ以前に較べると会社らしさを求めてきた時代になったのだろう。父も「事務系大学卒第一号」といっていたから、株式会社化とともに人材確保に会社側も乗り出したのだろう。だが、神戸大学の平井先生のところにどうやってカヤバがやってきたのかは聞き損じているが。

中小企業が従業員数で急に大企業になったからといって生産体制が追いつくはずがない。直接製造に携わる職工、まして当時の萱場の職工は腕に自慢のある専門的職工だからその数が増えない限り増産はできない。間接部門の人間(職工を叱る人)が増えるだけとなる。生産の規格化を進め、誰でも生産に携えるようにするためには日時を要する。短兵急にはできない。それに兵器だけに製品には慎重を要する。そこで戦争準備遂行とともに「受注」と「生産」とのギャップが起こった。

「幽霊戦闘機」事件だ。

幽霊戦闘機というと第二次大戦の終わりごろ連合軍が見た謎の半透明の飛行物体としてニューヨークタイムズ紙などで騒がれたがそのことではない。

日本のしかも太平洋戦争前の昭和十五年の「幽霊飛行機の怪」という新聞報道だ。

「陸海軍の新鋭機がどんどん作られているのに、脚の生産が間に合わないため空しく“足を失ったまま”格納庫に眠っている。」という趣旨だ。

昭和十七年にはもうこの現象がなくなっていたかもしれないが、この年、日本の陸海軍は八千八百六十一機の飛行機を生産したが、その八割はカヤバの油圧脚であった。それほど貴重品であったわけだ。この油圧脚はカヤバの売り上げの半分を占めているから戦争遂行とともにカヤバの売り上げが大きくなるのは当然、また本土が空襲を受けたり、資材がなくなり飛行機が生産できなくなると売上も少なくなるのは必然であったわけ。カヤバの工場は軍隊化していき昭和一九年末には一万三七四二名の従業員となる。

父が昭和十二年に入社して昭和二十年に日本が終戦を迎える間カヤバで具体的に父が何をしていたかは聞いていなかったのでわからない。ただ、昭和二十年から大分の臼杵工場に転勤となったことに伴い私どもは終戦の八月十五日まで臼杵で工場に隣接する浜辺の傍の社宅にいたことは記憶にある。家の風呂場から父親が働いているのが見える距離だった。この工場も元は繊維のグンゼの工場だったのだから如何に軍需優先になっていたかがわかる。

(注) 父の書いた梅干し経営学を読むと九州の疎開先を軍の斡旋で探し、臼杵と決め、二十年四月に東京から約六十名が工場に来たとある(二百十ページ)だから昭和二十年初頭は父は九州で工場探しをしていたということだ。(我々家族は祖父のいる宇佐にその頃疎開していたが)

日本が戦争に敗れたのは物量の面もあろうが、軍事技術が開戦前から日本でできなかった点にあるのではなかろうか。だから萱場資郎さんのような若手を陸海軍は大事にしてくれたのだろうが。それにしても、母艦から離着陸できない飛行機、あるいは幽霊飛行機を見て欧米に技術が劣っているから危ういと警告を発した人はいなかったのか。若干皮肉をいえばハワイ攻撃開始を南雲司令長官はカヤバ産の信号拳銃でしたが、それがなかったら合図できず戦争は開始されなかったかもしれない。(従来使っていた英国の拳銃は体力があるイギリス人には使えるかもしれないが日本人では発射反動に耐えられなかった。)

今年の福島第一原発の事故でもそうだ。欧米で安全といっても肝心のところの安全基準は極秘になっているのではなかろうか。まして「ツナミ」等欧米にはないから日本独自に基準を作る必要があるのに何故気がつかなかったのか。

「欧米では」の「ではの守」精神では技術や肝心の時には通用しないことを明治以来の日本まして戦後の日本は気がつかなかったのか。

そして、格納容器の安全性は強調されてもそれを冷却するという付属装置の安全性に着目する人が現れなかったのは何故か。まさに脚という付属装置ができない幽霊飛行機と同じ現象が現代日本でも起こっているのではなかろうか。

「戦争」や「事故」が起こって初めて関係者は気づき、ネコの手でも借りるように総動員するがその時では遅い。脚のない幽霊飛行機ができてしまう。

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