グーグル時代の情報整理術

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ずっと昔、確かに知識は力だった

ダグラス・C. メリル、ジェイムズ・A. マーティン(千葉 敏生訳)、『 グーグル時代の情報整理術』 (ハヤカワ新書juice。2009年12月)の著者は、元グーグルのCIO(最高情報責任者)。本書の主張の多くに、賛成したい。 第2章で、「ずっと昔、確かに知識は力だった」とある。何と本質をついた言葉だろう。
日本には、「知識が経済的価値を持つ時代がこれから来る」と言っている人がいる。何たる時代錯誤!救いがたき見当違い!
知識が力をもったのは、知識が簡単には手に入らなかったからである。しかし、それは「ずっと昔のこと」になってしまったのだ。その事実を認識し、ビジネスモデルを「フリー経済」に適応できるよう組み替えないかぎり、日本の衰退は止まらない。
暫く前、「コピペが学生に蔓延し、それだけでレポートを作る学生が増えたので困ったことだ」とするテレビ番組のインタビューを受けたことがある。「コピペ で出来てしまう問題をいまだに出し続けている教師のほうが時代遅れなのだ」と言ったのだが、まるで理解してもらえなかった。
この頃、つぎの原稿を週刊ダイヤモンドの連載のために書いた。ところが2011年3月の東日本大震災が起こってしまい、急遽差し換え原稿を書いた。その結果、この原稿は日の目を見ることがなかったので、ここに掲載することとしたい。

大学入試は実は裸の王様だった
日本社会の基幹的制度の一つである大学入試は、実は裸の王様だった。
今回の大学入試カンニング事件が明らかにしたのは、このことである。
打ち込みに熟達しさえすれば、誰もが持っている普通の携帯電話を用いて、入試問題の答は簡単に得られることが分かった。今回は(無邪気にも)ヤフー知恵袋 という公開の場に投稿したために、白日の下に晒されて失敗してしまった。しかし、特定の協力者に秘密で助力を求めたのであれば、露見せずに成功しただろう (そうした手法で合格できた受験生は、すでに何人もいるのかもしれない)。
今回の事件をきっかけに、今後の入試ではさまざまの対策が講じられるだろう。携帯電話の持ち込み禁止(場合によっては、身体検査や金属探知機によって)、試験監督員の見回りの強化、等々。
しかし、こうした方法で携帯電話によるカンニングを根絶できるとは、とても思えない。試験場はあらかじめ分かっているのだから、数日前に教室近くのトイレ に隠す等の方法を用いれば、入試当日の持ち込み禁止は、簡単に突破できる。大学側が見回り監視を強化して疑わしい行為を見つけても、注意するには相当の覚 悟が必要だ(集中の邪魔になったとして、受験生から苦情を言われる。訴えられる恐れもある。男性の監督員が女子受験生を丹念に観察すれば、セクハラになり かねない)。
では、「不正行為を厳罰に処す」と宣言することで予防できるだろうか?
それも疑問である。今回の事件では、不正を働いた 受験生が偽計業務妨害容疑で逮捕された。入試の公正が侵されたのは疑いもない事実だが、カンニング行為によって他の受験生が直接的な意味で受験を妨害され たとは思えない。実際、入試自体は平穏に終わっている。だから、起訴は難しいだろうし、起訴されても有罪にはならないだろう。
「被害届を出して 警察の力を借りなければ不正受験生を特定できない」という大学側の事情はよく分かる。しかし、本来は犯罪と言えない行為を、無理やり犯罪にし、強制捜査を 可能として調べたと言うこともできる。少なくとも、「そうまでして警察権力に頼らなければ、公正な入試を行なえない事態になった」と言うことはできるだろ う。現在の日本の入試制度は、IT時代には大学が自力では実行できない時代遅れのものになっているのだ。

「持ち込み禁止」は、現代社会で適切な制約か?
大学入試を始めとする「試験」においては、日常生活では利用可能であるさまざまな手段を禁止している。例えば、和文を英訳する必要が生じた場合、試験以外 の場であれば、辞書を参照できるし、英語の得意な人に聞くこともできる。いまでは英文校正サービスがウエブ上に多数あるので、論文や企業の正式な文書であ れば、それを利用して英文をチェックするのがごく普通のことだ。質を問わなければ、無料で使える自動翻訳サービスもある。言うまでもないことだが、これら の使用はルール違反ではないし、ましてや犯罪行為ではない。
試験でこれらに頼ることを禁止しているのは、「助力を認めれば、本人の能力をテストできないからだ」とされる。常識的に言えばそうだろう。しかし、現代社会では、こうした手段を使うことも能力のうちなのだから、禁止する理由は薄弱だとも言える。
実際、「自力で解く」能力だけが格別重要であるわけではない。和文英訳に多大の時間がかかるのであれば、実際の仕事で英語を使えることにはならない。つま り、現在の入試は、実務で絶対に必要とはいえない能力(自力で解くこと)をテストしている半面で、どうしても必要な能力(話す速さで英語表現すること)は テストしていない。
この2つの意味において、現在のペーパーテストは、日常生活での必要性とは乖離した能力を試していることになるのだ。ITの進歩で助力を得るのが簡単になったため、禁止することの意味はますます薄れている。
そして、今回の事件は、このように不自然で不合理な制約は、簡単な方法で無効化できることを暴露してしまった。「裸の王様」と言ったのは、こうした意味である。
したがって、問われていることの基本は、「ペーパーテストのみに頼る現在の入試は、現代社会において適切なものなのか?」ということである。
暫く前に、「課題論文にコピペで作ったものを提出する学生が増えて問題だ」とするテレビ番組のインタビューを受けたことがある。私は、「このIT時代に、 コピペで出来てしまう問題を出す先生のほうが、時代遅れなのだ」と答えたのだが、番組製作者は明らかに不満だった(求めていたのは、「コピペはけしから ん。モラルの確立が必要」という類いの答えだったからである)。
今回の問題は、これと完全に同じではないが、本質は同じである。「大学の教育、入試体制が、IT時代に追いついていない」ということが問題の本質である。
現代社会で必要な試験は、日常生活で利用可能な手段をすべて認めた上で、能力をテストできるようなものでなければならない。それは、ペーパーテストでも不可能ではない。
実際、私は「すべて持ち込み可」で期末試験を行なってきた。PCも当然持ち込めるので、インターネットで外部にアクセスすることも可能だ。しかし、私の問題は、ヤフー知恵袋では解けない。解ける人は限られており、彼らが不正行為に協力するとは考えられない。
大学入試はそれほど簡単ではないが、例えば非常に長い英文を読ませて感想を書かせるような問題なら、携帯電話での対処は難しいだろう。

大学教育の基本が問われている
ただし、問われているのは、そうしたテクニカルな問題ではなく、入試制度の根幹である。
センター試験のようなペーパーテストは足切りの道具に用い、内申書や推薦状、面接などを組み合わせて最終的な判定を行なう方式に転換するのが、もっとも前 向きの対処だ。アメリカなどで行なわれているのは、そうした方法だ。高校の成績や、SA、ACTなどのテストの点数で足切りを行ない、推薦状や小論文で人 格を評価する。
もちろん、それを実行するには、多大の労力が必要とされる。しかし、持ち込みの禁止や見回りの強化にも人員が必要だ。不自然で合理的とは言えない制約のために無駄な努力をするよりは、面接試験に人的資源を投入する方が、ずっと生産的だ。
日本の国立大学の学生数と教員数の比は、アメリカの一流大学と比べて大差ない(ハーバード大学は20,000対2,100、京都大学は27,700対2,864)。だから、やろうと思えば、現在の体制のままでもできる。
さらに重要なのは、「入学すれば卒業できる」という現状からの脱却だ。少人数の講義やゼミでは、不正行為で得点を稼ぐことはできないから、在学中の評価を厳しくすることは可能である。そして、簡単には卒業できないようにする。
これは、現在の教育体制の大きな変革を意味する。とくに、マスプロ講義が多い私立大学の文系学部では、そうだ。だから、簡単に実行できることではない。し かし、今回の事件が投げかけた問題の本質は、この点にもあるのだ。現在の日本の大学制度の基幹が問われているのである。

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