奨学金

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一個人が始めた奨学金
野口悠紀雄

半田フェローシップ
私の高校の同級生、半田宏治君は、若いときにカナダに渡って日本車のディーラーを始め、成功して60歳で引退した。そして、事業を売却した資金で奨学金をつくった。
奨学金は、「半田フェローシップ」と名づけられた。個人が拠出した基金だから、それほど巨額なものではない。総額一八万ドルで、一人当たり二年間にわたって三万ドルを給付する。返済は不要。四年間にわたり、全部で六人に支給した。

「奨学金」という観点から見れば、これは「ささやかな計画」というべきかもしれない。政府や大企業がなしうる規模に比べれば、確かに小さなものだ。しかし、これは、一人の市民がやったことである。
事業で成功した人は大勢いる。しかし、それらの人びとの多くは、結局のところ、豪邸を建て、別荘を買い、高級車を乗り回し、ということにしかカネの使い道 を見出せなかったのではあるまいか。仮に本人が寄付を考えたとしても、まわりの人たちがそれを許さないだろう。とりわけ、遺産を当てにする人びとを説得す ることは、たいへんむずかしいだろう。
一人の個人が思い立って奨学金をつくるのは、決してだれにもできることではない。もし半田フェローシップの規模を「たいしたことはない」という人がいるなら、「はたして自分にできることか?」と自問してほしい。

どういう仕組みにしたらよいだろうと半田君から相談を受け、いろいろと検討した結果、米国ペンシルバニア大学のウォートン・スクールに合格した日本人のなかから選ぶことにした。
留学先のほうを先に決めたのは、先に奨学金受給者を決めてしまうと、留学先が決まらない場合や、最初の志望とは異なる留学先に行かざるをえない場合が生じてしまうおそれがあるからだ(企業派遣の留学生などでときどきこの問題が発生する)。
半田君と私、それに若干名を加えて選考のための日本委員会をつくり、二〇〇三年に最初の面接を行なって、二名の受給生を決めた。

学びたい意欲と学べない環境
半田君の願いは、奨学生のなかから日本を変える人が現れることだった。狭い日本社会のルールにとらわれず、また、大学で学んだ専攻にとらわれず、もっと自 由な発想で未来をひらいてゆける人材だ。そして、「日本と外国」というような区別を意識せずに全世界的な視野で仕事を遂行できる人材だ。
実際、日本経済を再活性化するのは、結局は人材なのだ。成長戦略でもっとも弱いのがここである。経済活動を支える人材がいなければ、日本経済が活性化するはずはない。
それにもかかわらず、人材育成の具体的な方策はきわめて不十分だ。

社会人で学びたい意欲に燃えている人は、決して少なくない。むしろ、そうした人たちは、昔より増えた。私自身が、早稲田大学大学院ファイナンス研究科で教えて、それを肌身で感じた。
私が教えた相手は、三〇歳前後の社会人だ。金融機関に勤めているか、かつて勤めていた人が多かった。ファイナンス理論の最先端を学んで新しい業務を切り開 いてゆきたいという熱意に燃えていた。彼らのほとんどは、企業派遣者ではない。したがって、財政的援助は皆無に等しいから、働きながら通学していた。なか には、入学が決まったあとで地方に転勤になってしまい、土曜日の講義のために新幹線で通学している人もいた。もし、寄付税制が緩和されて奨学金が増えれ ば、彼らは仕事から一時離れて勉強に集中できたかもしれないのだ。
しかし、こうしたことをいくら訴えても、効果はない。それよりは、各人ができることから始めることだ。半田君がやったのは、小さいことかもしれないが、「提言」ではなくて、「実行」だった。

で は、なぜ「留学」なのか? それは、最先端分野の教育について、日本の教育機関ができることには、残念ながら限界があるからだ。そうした分野を教えること のできる人材が絶望的に少ない。文部科学省は、専門大学院や専門職大学院などの「うつわ」を作ることには熱心だ。しかし、「うつわ」を作ったところで、ス タッフがいなければ機能しない。
これも、私自身の経験から明らかなことだ。私は、東京大学に在職中、ビジネススクールを新設しようと努力した。さまざまな障害があって、結局は予算要求だ けで終わってしまったのだが、もし予算がついたとしても、ただちに計画どおりの教育を始められたかどうかはわからない。最先端のファイナンス理論や暗号理 論などを教えられるスタッフが、多数いるというわけではないからである。
いまだからいえることだが、もし無理して設立したとしても、学生の期待を裏切ることになったかもしれない。「新しい酒は新しい皮袋に」というが、皮袋だけ 作って新しい酒がないのが、日本の現状なのである。だから、少なくとも当分のあいだは、新しい分野を学ぼうとすれば、外国に留学せざるをえない。

国際ビジネス社会から脱落する日本人
統計を見る限り、日本人の海外留学は増えている。しかし、これは、私の実感とまったく反対だ。統計でいう「留学」は、語学研修などの短期留学も含めたもの であり、学位を求めての大学院留学はそのごく一部なので、質まで含めた本当の動向は統計に表れないのだ。ビジネススクールに関する限り、企業派遣留学生が 激減したため、状況は1980年代とは様変わりした。
一九八〇年代には、米国のビジネススクールにおける日本人留学生の存在感はたいへん大きかった。日本企業からの留学生だけで排他的なグループを形成し、周 囲から嫌われているという話を何度も聞いたほどだ。しかし現在では、中国、インド、韓国からの留学生に圧倒されている。
私の経験でも、海外留学者の激減は明らかだ。八〇年代には、応募書類に推薦文を書いてほしいという希望者が、私の卒業生に毎年五~六人はいた。一人が複数 の志望校に提出するので、全体ではたいへんな数になる。志望校の数を限定させたり書式を決めたりして、作業量の限定を図ったほどだ。

もっ と 根本的な理由によって、日本人の内向き志向が強まっている面もある。その理由とは、一人っ子が増えたことだ。三〇年近く前から気づいていたことだが、卒業 する学生が故郷に帰りたがる。親の元に戻りたいか、戻らなければならないのだろう。都市銀行など全国的に事業所がある会社には就職せず、地元企業や県庁に 就職したがる。それ自体は決して悪いことではないが、こうした人が増えれば、海外で働くことなど論外になってしまう。
海外でのトレーニングを受けた人びとが激減すれば、国際ビジネス社会に日本人が進出してゆくことは、今後はむずかしくなる。海外との個人的なネットワーク も途切れてしまう。アジアのビジネス社会は、中国人とインド人に制覇されてしまうだろう。これまでは日本企業の強さがそれを補ったが、それも急速に減衰し てゆく。
国際ビジネス社会における日本の地位は、絶望的な状態に直面しているのである。今後、外国人と対等に渡りあえる人材は、日本では枯渇してしまうのではないだろうか。

こうした状況を踏まえて、半田君の願いは、この奨学金を永続的なものに成長させることだった。
しかし、病を得て、2011年、東日本大震災の直後に亡くなった。その直前まで、彼がオタワの郊外に持っていた広い農場の建物を改築して、社会人のための研修プログラムを作りたいと2人で相談していた。そのことが、いま懐かしく思い出される。

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